2023年10月20日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その403


エルム街のアコムさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. 私にとって「詩を書く」という行為は、自分の核を表現することです。それゆえ、自分が消費されてしまうかもしれないのが怖く、書いた詩を人に見せることにまだかなり抵抗があります。でもこのまま自分のなかだけで抱え込んで死んでいくのも、なんだかなあという感じです。やはり作品を世に送り出すのは、消費される覚悟ができてからのほうがよいのでしょうか?


ふむふむ。これはいつの時代にもあって尽きない悩みのひとつかもしれないですね。詩にかぎらず絵を描いたり歌ったりコスプレをしたりといった多くの表現でも当てはまるんじゃないだろうか?

ただ昔からあれこれ発信しているわりにこれといって甲斐がない点では人後に落ちない僕からすると、消費されることを発信前に考えるのはやや勇み足、という印象です。なんとなれば消費されるためにはまず①人に届く必要があります。そしてよほどの天才でないかぎり、②そう簡単には人に届きません。さらに届いたとしても、③是非なく素通りされることのほうが圧倒的に多い。仮に何かしらの結果を得ようとするならその行程はヒッチハイクそのものです。運よく乗せてもらってもわりとすぐ降ろされてしまうこともあるだろうし、なんなら思いもよらない目に遭う可能性だってあります。そう考えるとハードルは高い…というか、絶対に目的地に辿り着くという強い意志がないかぎりむりだし、及び腰になるのは当然です。

しかし一方で、段ボールの切れ端に詩を書いて路傍で掲げ、千差万別なドライバーたちの気を引くことだけが作品を世に送り出す唯一の方法なわけでもありません。道端に花を植えたり種を蒔いたりするようなやり方もあります。

かくいう僕もnoteに物語をインスタに詩を載せているけれども、これはまさしく花を植えるような感覚です。何とも思わない人もいれば、気づかずに踏んづけていく人もいるし、目に留めて愛でてくれる人もいるでしょう。それが花というものだし、一輪の花に過剰な期待をすることもありません。元気に咲いて、誰かの目を楽しませておくれと願うばかりです。ですよね?

結局のところ消費される不安というのは、見返り(たとえば共感です)を求めることの裏返しでもあります。それ自体はぜんぜん悪いことではないし、なんなら多くの場合がそうかもしれないけれども、望んだだけの見返りが得られることなどまずないので、それが心をすり減らす原因のひとつになり得ることは確かです。

なので僕としてはここで改めてなぜ作品を公開するのか、その理由を見つめ直してもよいとおもいます。もちろん自分のためでもあるし、見知らぬ誰かのためでもあってほしいけど、そのどこに重きを置くのか、ということですね。たとえば100人中1人が好意を持って受け入れてくれたとき、99人に否定されたと感じるだろうか、それとも1人に届いたと感じるだろうか?

少なくとも僕は、まだ踏み出していない今この時点なら、考え方というか視点をそのまま反転させてもいいのではないかな、と考えます。つまり消費されてしまうかもしれないではなく誰かの糧になるかもしれないというふうに。


A. 花を植えることから始めましょう。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その444につづく!

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