労働・オブ・ザ・人夫さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q. 癒しが欲しくてしょうがないのですが、世話のことを考えると余裕がなくてペットは飼えそうにありません。なにか植物を育てようとしても子供の頃からお花は枯らすタイプだし、サボテンを買ってみましたが手がかからなすぎるのでいまいち愛情を感じられません。こんな私でも得られる癒しはこの世にあると思いますか?
癒し……それは生きづらくなればなるほどその需要を増す、したがってこの先はおそらく人類が滅亡するまで貪欲に求められつづけていくであろう、そしてそこに身を投じると人であれば例外なくなんかこう「ああ……あああ〜……」ってなるやつですね。
うちの人なんかはどんなに愛情を注いでもサボテンを余裕で枯らす猛者なので、その程度ではまだまだひよっこと申せましょう。
かくいう僕も他聞にもれず、というか小汚いおっさんに似つかわしくなくふわふわしたものが好きでことあるごとに毛布をなでたりしていますが、しかしここで一度はっきりさせておくと、癒しはそれがない状態で求めた途端にある種の風俗に成り果てます。
おれのふわっふわ毛布と風俗をいっしょにすんじゃねえよ!とブチ切れるのも無理はありません。ありませんが、落ち着いていただきたい。僕にとっての毛布はたしかに大いなる癒しの側面を持ち合わせていますが、そもそも癒しのために求めたわけではなく、防寒というきわめて実用的な目的のために入手したものが結果として癒しに転じているだけであって、ここに決定的な違いがあります。おっさんのおっさんによるおっさんのためのふわふわ毛布は今日も100%ふわっふわでよろしい。結果として癒されるぶんには何ひとつ支障がないのです。
風俗としての属性とその問題はあくまで「癒しを求め」た時点で生じます。なんとなればそうして手にしたものは癒された時点で用を成さなくなってしまうからです。すくなくともさらなる癒しを手にした時点で、確実に用を成さなくなるでしょう。もともと防寒のために求めた結果、癒しがオプションでついてきたおっさんのふわふわ毛布とはそこが決定的に異なるのです。
したがって、僕の結論はこうです。癒しのためにいま手にしていないものを探し求めるのではなく、今すでに手にしているものすべてを癒しのために改めて洗いざらい徹底的に総点検してみること。そのためにあるわけではなかったけれども、こうして向き合ってみると丸まった綿ぼこりも可愛いし風情があってなかなか癒されるものがあるなあ、とかそういう感じの何かを見つけることができれば言うことありません。何と言っても本来そのためにあったものではないので、仮にすっかり癒され尽くしたとしても不要になることがない点が肝心です。ただ綿ぼこりはどちらかといえば初めから不要な部類に含まれるので癒されたら捨ててください。
それでもなお新しい癒しを外に探したいというのであれば、まず近所のコンビニあたりから始めるのがオススメです。それらしいものがあればあったでラッキーだし、なければないで唐揚げでも買って帰ればそれなりの甲斐は見出せます。あれだけ商品数があるんだからひとつくらい絶頂レベルで癒してくれるものがあってもおかしくないはずです。
それにすごくやわらかいゼリーとか、スプーンでぷるぷる突ついてるだけで意外と癒されるもんですよ。
A. とりあえずいま身の回りにあるものを片っ端からさわったり撫でたり褒めそやしたりしてみましょう。
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その320につづく!
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