2016年4月12日火曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その244


天上天下Youがジャクソンさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)人はみなジャクソンであってただそれだけで尊いという、釈迦の言葉ですね。


Q: 「生理的に受け付けない人」を受け入れられるようにするにはどうすればいいでしょうか?また、「自分のことを生理的に受け付けない人」に受け入れてもらうにはどうすればいいですか?


「生理的」というのは言い換えれば「本能的に」という意味です。本能である以上、そこに理屈はありません。イヤなもんはイヤだし、結論としてはそれがすべてです。

たとえば六本木ヒルズの上にある森美術館はいつも企画が良い上にエッジも鋭い、日本が世界に誇る美術館のひとつですが、僕は高所が苦手(樹上を除く)なのであまり行きません。ちょっとそそられる企画展がひらかれるたびに舌打ちしています。たまたま近くに手ごろなドラム缶があれば腹いせにドロップキックをお見舞いしているはずです。まったくもって忌々しい。

だいたい美術館を地上から200メートル以上の高さにつくる必要がどこにあるっていうんだ?飛行中の旅客機が轟音とともに館内を通過するとか、そこでしか味わえないエクスクルーシブな鑑賞体験があるならともかく、どのみち周囲を壁で囲うなら天空につくる意味なんて何もないじゃないか?

ともあれ、頭では整理できても心がそれに従わない、これがつまり生理的であるということです。

人であれモノであれ場所であれ、そういう理由で受け付けられないとしたら、それをしいて受け付ける必要はありません。同じ理由でこちらを受け付けてもらえないとしても、それはやはり、彼らの権利です。本能には本能なりの、窺い知れないたしかな理由が、たぶんある。

ただし、「生理的」とはある種の思考停止を示す表現です。本能であり、理屈を必要としない以上、その先は問答無用であって、一切の追求を拒否します。裏を返せばこれひとつで何も考えずにすべてをシャットアウトできるのだから、これほど使い勝手のよいジョーカー的表現は他にありません。そもそも実際に生理的であるかどうかすら、ここでは問われないくらいです。

だとすると、そこにはひとつの疑問が生まれます。その拒否感は本当に「生理的」なものなんだろうか?

生理的ならしかたがないと先に書きましたが、高所や閉所といった空間や、食べものの好き嫌いといった嗜好ならともかく、人が人に対して生理的に云々というのはいささか釈然としないものがあります。生物が同じ種に対して本能的に避けるなんてことが本当にあり得るんだろうか?

もちろんないとは言いません。ただ、考える前に止めた思考を再開することで、わかることもおそらくかなりあるはずです。拒否するならするでいいけれども、それが本当に生理的なものであるかどうかを検証してみてからでも遅くはない、ということですね。そしてもしそこに理由がみつかるなら、また個別に対処のしようもありましょう。たとえば「この人は鼻の角度がわたしからすると鋭角すぎる」というのなら、人ではなくその鼻の角度に対して向き合いかたを考えればよいのです。そうして真摯に向き合った結果、ダメならそれでいいじゃないですか?好意はないかもしれないけど、すくなくとも誠意はあると僕はおもいます。

そして逆に「どうしたら受け入れてもらえるか」ということのほうですが、どちらかというと「生理的に受け付けないボックス」にまっすぐ放り込まれがちな作品ばかりをせっせとこしらえてきた僕としては、それができてりゃ今ごろ人気者だよ、と吐き捨てるように申し上げるほかありません。そんなことは考えるだけ詮無いし、重要なのは受け入れられない人に受け入れてもらうことではなく、そのために心を砕かずとも受け入れてくれる人がたしかにいるということです。それ以上に何を望みましょう?


A: 本当に「生理的」なのかどうか、まずは検証してみることです。


ふとおもったけどこれ、僕に対する皮肉とかそういうことじゃないですよね……?




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その245につづく!

2 件のコメント:

  1. 「嫌いな人」にたいしては欠点ばかりに目が行って良いところを見ようとしないので、向き合うことは大切ですね。

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  2. > 匿名さん

    鼻の角度くらいで避けられるのもやるせないですからねえ。

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