あった、と過去形で切り出したように、彼らはいま目立った活動をしていません。なぜ活動していないのかと言えば、ある年オーストラリアまで日食を観測に出かけたMCのひとりであるATOMさんが、そのまま向こうに居着いて日本に帰ってこなくなってしまったからです。片道分の航空券しか用意していなかったことは聞いていたけれど、まさか本当に帰ってこなくなるとは当時だれも思いませなんだ。
貯蓄や収入源はおろかそもそも知り合いすらいないのに、なぜよその大陸で生きていくことができるのかというのは、心理的な距離で言ったらかなり近いはずの僕らですら今もって解せない謎のひとつです。聞くところによると「衣食住には金をかけない」とこともなげに話していたそうですが、もしそれが本当だとすればカンガルーのお腹の袋で寝泊まりしているのかもしれません。言われてみればたしかに元から、人とか獣とか妖怪とか、そのへんの区別をあまり気にしない大らかな人ではありました。
追悼ではありません
ATOMさんはまた、僕が生まれて初めて人前でリーディングをした夜、その場にいた数少ない証人のひとりでもあります。古川耕という、僕にとってこの世に2人とない知己を得たのもこのときですが、それもATOMさんが彼に声をかけてくれていたからです。
僕がヒップホップを好んで聴いていたこともあって、古川さんは当初から「ヒップホップ的なアプローチで作品をつくってみないか」と提案してくれていたけれど、そこからアルバムをつくろうという話になるまでたしか2年くらいかかっています。何しろそれを実現するには詩をのせるためのトラックというか、ビートがなくては始まりません。でもビートなんか手元にあるわけないし、提供してもらえるような知り合いもないし、ましてや自作するなんて当時は完全に想像の埒外です。そういうのはもう、じぶんとは全然縁のない世界の話だとおもってた。
アルバムに収められているビートはもちろんすべて僕がMPC2000XLという、今となっては骨董みたいな古いサンプラーでこしらえたものですが(データの保存はフロッピーディスクかSCSIでつなぐMOでUSBもない)、このMPCの存在とその使いかたをゼロから教えてくれたのも、ATOMさんです。
つまり元を辿れば古川耕とMPCという、僕の作品がアルバムとして形を成す上で絶対的に欠かせない2つの要素をもたらしたのが、ATOMさんということになります。彼がいなかったら今ごろ僕はここにいなかったはずだし、当然オントローロも生まれていません。僕と僕の作品にとっては古川さんよりも先にいた、文字どおり神様みたいな存在です。
そんなATOMさんが0.03世紀ぶりに数日間だけ日本に帰ってくることになり(考えてみれば文無しなのになぜ帰ってこれるのかもふしぎです)、どちらかというとやむを得ない消極的な帰国理由はさておき、SUIKAのMC3人の再集結を祝う盛大な宴が先週末、恵比寿CreAtoで催されました。そういうことはもっと早く言えと仰るでしょうが、僕は僕でオントローロのことばかり考えていたので仕方がありません。
ステージに3人が並ぶ機会はこの先もうないかもしれない、と心のどこかで受け入れていただけに、冒頭の「MUSIC JUNKIE」でぶっ放されるATOMさんのビッグバンみたいなバースを耳にした瞬間、大げさでもなんでもなく涙がぼろぼろこぼれました。フロアが暗くてよかったとおもう。
あと、SWING-OさんとATOMさんのフリースタイルピアノセッションがすさまじくて鳥肌ものでした。何アレ……。
おかえりなさい、会えてよかった!そしてありがとう、気が向いたらまた帰ってきてね。
記事見てちょっとこみあげてきた。行けてよかったです。
返信削除> 縞々さん
返信削除いつもありがとう。よかったよね!