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2015年6月29日月曜日
夏至のころになると恥ずかしがり出す団子屋の話
煮え切らない梅雨の晴れ間から、にじり寄る夏がちらりと覗きます。この時期になるとふと、以前ある町で行きがけに立ち寄ったちいさな団子屋を思い出すのです。
立ち寄った理由はとくにありません。しいて言えば暖簾が目に入ったからで、「串団子1本もってぷらぷら行くのもいいねえ」とかそれくらい何でもない成り行きです。ひとりで切り盛りしているらしいおじいさんに声をかけつつ、ショーケースを見るとみたらし団子が1串40円とあります。
僕が小さいころは近所にも1串30円の店がありました。でもさすがに21世紀を15年もすぎた今にあってこれは目をこすって見直すくらいの破格です。なんてこったこりゃ途方もねえ、と俄然テンションが跳ね上がり、1本どころか餡も焼きもみたらしも片っ端からいっとかなくては収まらないような気になってきます。
しかし帰りがけならともかく、行きがけです。あれこれ買いこんだところで道中に食い切れるものでもないし、と言って食わずに抱えて歩き回るのも団子のためになりません。それならここはまずひと串ふた串にとどめておき、帰りにまた土産として山ほど買いこむのがよろしい。
そこで店主に営業時間を尋ねてみたのです。
「今日は何時まで営業されてますか?」
「いつもは6時くらいだけど、でも、その…(ムニャムニャ)」
「6時ですか?」
「やーでもホラもう最近、明るいでしょー6時でも」
「日が長いですよね」
「そう、だからあのー」
「?」
「恥ずかしーんだよね、その〜、明るいうちに閉めちゃうとさー」
「え、恥ずかしい……?」
「恥ずかしーよ〜」
「(o゚Д゚o)」
「(*´∀`*)」
お天道さんが見てると店を閉めづらい、と照れくさそうにする大らかな仕事ぶりと、ずっとそんなふうに日々を歩んできた店主の人柄にふれたら、それは誰だって胸をキュンと射抜かれようというものです。いったいどうしたらこんな生き方ができるんだろう?
約束どおり帰りに寄ったら団子もだいぶ減っていたので、残りをぜんぶ買って帰りました。考えてみればあの店にしてあの主人ありならみんなに愛されないわけないんだから、売り切れてなくてよかったと胸を撫で下ろしたものです。
もし次に行ったとき団子が倍額になってたとしても、やっぱり寄らずにはいられないとおもう。
2015年6月26日金曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その215
実用洋食ってなんだ?
窓マックス2さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)前作のヒットを受け、約10倍の費用をかけて製作されたさらに大きな窓のことですね。
Q: 東京の人はなぜ冷たいのですか。
ドロシー・セイヤーズの短編でも「ロンドン市民は他人に関心を持とうとしない……」と嘆く巡査に対して、主人公たるピーター卿が「それがロンドンというものさ」と返しています。しかもこの作品が書かれたのは今から80年ちかく前のことだから、都会の印象というのは時代と土地を問わずいつも似たり寄ったりのようです。
僕も同じところに長らく住んでいるけれど、マンションの住人に声をかけてもらった記憶がほとんどありません。挨拶をするのはいつもこちらからだし、そういえばついこないだ階下のご婦人と交わした会話が、ここ10年でも数少ない機会のひとつだったような気がします。
「こんにちは」
「こんにちは……あっ」
「?」
「あの……」
「はい」
「つかぬことをお伺いしますが……」
「なんでしょう」
「工具ってお持ちだったりしますか……?」
「工具?というと?」
「蛇口が水漏れするんで、ねじを締めたいんです」
「ねじ?」
「ねじというか、六角形の……」
「ははあ」
「えーとあの、モンキー?とかって言うらしいんですけど……」
「あ、レンチですね」
「どこで買ったらいいのかもわからなくて……」
「ありとあらゆるサイズ対応のレンチとスパナ20本セットなら持ってます」
今の今までなぜこんなプロ仕様の工具セットがウチにあるのかずっと謎だったんだけれど、なるほどこの日のためだったのかとすっきり腑に落ちたものです。
*
あだしことはさておき、僕がおもうにこれは単純に情報量とキャパシティの問題です。人も多ければ車も多い、建造物が多くて用事も多い、用事が多ければ移動も多いし、おまけに電車は5分おきにやってきます。次から次へと絶え間なく降りかかるこうした外部刺激すべてに等しく注意を向けるのは、やはりどうしたって至難の業と言わねばなりません。
脳みその容量が有限である以上、その処理能力には限界があります。6畳間に人が2人いるのと20人いるのとでは気の配りかたもおのずとちがってくるはずです。こんなにいるんだからじぶんじゃなくてもという集団心理の働きもあるでしょう。
要は周囲に対する感度を下げることによって、処理すべき情報量を抑制しているのです。ある程度までの刺激をノイズとしてシャットアウトしないことには、心がパンクしてしまうわけですね。部屋が散らかれば散らかるほど掃除をする気が失せていくのも、おそらくこれと同じ原理と考えてまず差し支えありますまい。
したがって、都会における人の冷たさや無関心は、個人の性質よりもむしろ生物としての防衛本能に近いものがある、と僕はおもいます。すくなくともそう受け止めるとそれだけできもちもずいぶん楽ですよ。
A: 心の容量に対して情報量が多すぎるからです。
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その216につづく!
2015年6月23日火曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その214
食卓に挿してあった一輪の花がしおれてきたのです。放っておいても朽ちていくだけだから、そろそろどうにかしたいけれども、といってそのままゴミ箱にポイとうっちゃるのは即物的で何だか後ろめたいものがあります。それなら近くの畑にでも置いてくるほうがまだいいようです。実際にいいかどうかはさておき、しかしまあいいだろうと深く考えずに花を持っててくてく向かうと、そばに停めてある原付が目に入ります。持ち主はたぶん、近所のピザ屋にバイトに来ている少年です。すこし考えたあとでこれもまあ何かの縁だからと、手に持っていた花を原付のシートにそっと置いて帰りました。しおれかけていたとはいえ花はまだ鮮やかな色を保っていたし、いかに推理を働かせようと中年のおっさんが置いたという結論にはまず辿り着くまいから、あれこれ想像してせいぜいそわそわしてくれたらいいとおもう。
*
♪キッミッとぼーくの〜ハート通信〜かんじあえれば最高さーハッチャブルハッチャブルハッチャブル!さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)
Q: 女の子に好きな芸能人を聞かれたとき、素直に石原さとみとなどと答えようものなら「そんな女いねえよ!」と総スカンをくらい、ちょっとブサカワなコを挙げても「どこが可愛いの!?」と冷たい視線を浴びます。ベストアンサーを教えてください。
微笑ましくも和やかなひとときですね。色とりどりの花を散らすような和気藹々とした雰囲気が伝わってきます。世の中にはベストどころかそもそもそんなアンサーの機会さえ恵まれない男子が砂丘の砂つぶほどいることを考えると、せいぜいもみくちゃにされたあげく肘鉄でも食らったらいいよと匙を投げずにはいられません。冷たい視線でもいいから浴びてみたい、もしくは総スカンでいいから叩かれてみたいと体育座りで部屋の隅にちぢこまる我々のきもちをちょっとは汲んでいただきたい。
とまあ、そんなことをぶつくさ申しても詮無いし、せっかくご相談いただいたのだからここはひとつグウの音も出ないアンサーを提示しておきましょう。
A: 男性の芸能人を挙げたらよいのです。
だいたい女子にそんな興味を持ってもらえるってどんなハーレムシチュエーションだ歯を食いしばれこのやろう!
*
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その215につづく!
2015年6月20日土曜日
身長16センチの人間にとって時速30キロは安全な速度か?
カストリ先輩の身長は160センチです。家から駅までは300メートルの距離があって、歩くと3分半ちょいかかります。時速30キロの原付でぶーんと走れば36秒です。
さて、ここでカストリ先輩がうっかり何かをやらかしてしまい、身長が1/10に縮んだとしましょう。当然歩幅も1/10になるので、単純に考えると家から駅に着くまでの時間はそれまでの10倍、すなわち36分ほどかかることになります。
しかしラッキーなことに原付も同じ1/10に縮んだため、これから駅までは原付で通うことにしました。大きさが1/10になっても原付のパワーは変わりません。いつも通り運転すればいつも通りのスピードが出ます。時速30キロで走れば、駅までの所要時間は36秒です。
あれ?とここで僕はおもうのです。
160センチのカストリ先輩にとって、原付の速さは徒歩の6倍です。しかし16センチに縮んだカストリ先輩にとって、原付の速さは徒歩の60倍になります。
気になるのはここでの「体感速度」です。これは身長が160センチあって時速5キロで歩く通常のカストリ先輩にとって、時速300キロというF1並みのスピードで爆走するのと同じ感覚なんだろうか?それとも、時速30キロの感覚はやっぱり時速30キロのままなんだろうか?
徒歩のテンポや原付の速度は同じなのだから、端的に言ってこれは「時間」の問題です。でも全く同じルートで所要時間が大幅に圧縮されたとき、僕らはそれを「時間が短くなった」と感じるだろうか?むしろ「速度が上がった」ように感じるんじゃないだろうか?
しかしそれにしても体感とはいえ時速300キロというのはいくらなんでも速すぎる気もするのです。その理屈でいくと法定速度でのんびり走る原付でもF1並みのドライビングスキルを必要とすることになります。後方からサイレンを鳴らしながら追いかけてくる白バイなんか感覚的には時速600キロくらいのスピードになる計算です。
時速600キロと言ったら日本のリニア新幹線か、ジェットエンジンを積んだ弩級のモンスタートラック "Shockwave" の最高速度と肩を並べるレベルですよ!
いや、そんなはずはないな。そんなはずはない。"Shockwave" でさえ走り出したらパラシュートを使わないと止まれないのに、時速600キロで走る白バイが落ち着いた調子で「はい、じゃそこの路肩に寄って」とか言いながらふつうにブレーキでキュッと止まるのはさすがに平仄が合いません。
だとするとこれはやっぱり錯覚なんだろうか?でもふだん歩いて30分以上かかるところを、数十秒で到達したら「うおお!めちゃ速い!」と運転しながら叫びたくなりそうなもんじゃないか?いや、もちろん時速で言ったら30キロの超安全運転……
……安全?
そもそも身長16センチの人間にとって時速30キロは安全な速度なのか?F1並みの体感スピードを安全と言っていいのか?よく考えたら家から駅に行くだけなのに、そのたびに極限のデッド・オア・アライブを繰り返してたら体がもちそうにありません。体のサイズに合った適切な体感速度で走るとしたら、えーと、1/10だと時速3キロでいいのかな。時速3キロというとたしかジュゴンの泳ぐ速度がそれくらいだったとおもうけど、それだとまたずいぶんのったりした印象です。果たして時速3キロの原付に乗る意味はあるのか?
とまあ、そんなようなことを暇と暇の間に悶々と考えつづけて答えが出ないまま、気づいたらかれこれ2週間ちかくがすぎようとしているのです。
2015年6月17日水曜日
出会い系としての側面も見逃せない独演会の総括
前回とは打って変わって男女比が逆転、なぜだか客層もちがっているように見受けられた「オントローロ 00」の閉幕から数日がすぎ、「-01」の開演10分前に強打した脛のかさぶたもようやくはがれようとしています。すこし時間がたってしまいましたが、ご来場いただいたみなさま本当にありがとう!おかげさまで各回とも恙無く、というか脛を打ってパンツも裂けたから恙無くもないんだけど、ともあれぶじ、終えることができました。今は「また来たい」とおもうほどにご堪能いただけたことを心から願うばかりです。楽しかった……よね?
40人いるようには見えないな……
今回初めて自ら独演会を企画してみて、冥利に尽きるとしみじみ感じ入ったことのひとつは、友だちができたとのご報告をちらほらいただいたことです。言われてみれば小林大吾を知る人しかそこにはいないんだから(すごい話だな)、初対面でも以前からの知己のように歓談できて全然おかしくありません。考えてもみなかったけど、そんな機会を提供できる場でもあるんですね。誰かと誰かをつなぐことができるのなら僕としてもこんなにうれしいことはないし、何ならいずれは「なれそめはオントローロです」とかそんなことになっちゃったりしてキャーウフフと先走らずにはいられません。なんかすごくイイことをしている気がする。
*
セットリストを載せておこうかともおもったのだけれど、たぶん曲目からの印象と実際に体験してもらうのとでは相当ギャップがあるとおもうし、ここはあえて控えることにいたしましょう。曲として初披露だったのは「fishing ghost revised」と「リップマン大災害リミックス」の2つ、パフォーマンスとして初披露だったのは「アリアドネの糸玉」、「コード四〇四」、「なれそめ」(00のみ、-01は「笛吹きの末裔」)の3つ……かな?他にもあんな曲やこんな曲をひさしぶりにやったりして、その合間にカツカレーとか、不埒なうわき随筆とか、ドッペルゲンガーとか、ピンクレディーのUFOとか、モンドリアンの抽象画と梅干しの関係とか、そういう与太話をはさみつつ、あとは例の「パンと菌」をパンの彼になりきって真剣に詠んだりしてました。
「fishing ghost revised」はアカペラとオンビートの両方を詠みましたが、00ではアカペラにサンプラーならではのちょっとしたアレンジというかギミックを加えています。-01でお聴きになった方にとってもこの違いは新鮮に響くとおもうので、ぜひまた遊びにおいでませ。
そしてこれからオントローロにおいでくださるみなさまには改めて、また以前よりも自信をもって「YOU来ちゃいなよ」とお誘い申し上げましょう。リーディングの意味と神髄を味わうのにこれほどうってつけの場は他にありません。ここで展開される世界はきっと想像を上回るはずです。もしくは確実に上回るためにあんまり想像しないでくださいと言い換えてもよろしい。(調子に乗って広げた大風呂敷を電光石火で畳んでいます)
次回開催は8月の予定です。もちろん、今回とはがらりと内容を変えてお送りします。初めましても二度めましても大歓迎です。刮目して待て!
2015年6月14日日曜日
ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その213
特攻野郎ATMさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)米軍コマンド部隊の精鋭4人がそのスキルを活かしてちまちまとお金をおろす80年代のアクションドラマですね。
Q: 新しい自転車を購入する場合のポイントはなんでしょうか?
新しい自転車、いいですね。古いのはどうなっちゃったのか気になりますが、気にしてもしかたがないのでここは新車のことだけ考えましょう。僕が考える購入時のポイントは以下のとおりです。
・自転車屋に行くこと。
・自転車が買えるだけのお金を持っていること。
・店員が地球人であること。(成人ならなお安心です)
・ハンドルがついていること。(円形でないほうが好ましい)
・サドルが1つであること。(2つあっても困ります)
・チェーンがついていること。
・左右にペダルがついていること。
・車輪が前後2つであること。(一輪車かもしれないからです)
・車輪にタイヤがついていること。
・タイヤにチューブが入っていること。(その逆は不可です)
・チューブに空気が入っていること。
・ブレーキがついていること。(アクセルはなくてもいいです)
・他人のでないこと。
・走ること。
・持ち主を置いて走り去らないこと。
・見上げるような大きさでないこと。
・見失うような小ささでないこと。
・ETが乗っていないこと。(浮いてしまいます)
・ぬるぬるしていないこと。
・ちょっとした一言で傷ついたりしないくらいには頑丈であること。
・前向きであること。(物理的な意味で)
・盗まれない程度にカッコイイこと。
基本的な注意点を思いつくかぎり挙げてみましたが、これらをクリアしてさえいればどんな自転車でもまず失敗はありません。上々のサイクリングライフが待ち受けることまちがいなしです。レッツエンジョイ!
A: 栄光に向かって走り出しましょう。
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質問はいまも24時間無責任に受け付けています。
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その214につづく!
2015年6月11日木曜日
朝食のヨーグルトから豊かさについて考える
ここ数年、朝食にヨーグルトをガラスの小皿にちょこっと盛って出しているのです。取り立てて好物というわけでもないんだけれど、いつからか気がついたらそれが当たり前になっていて、今ではうっかり出し忘れると何かだいじなものが欠けているような気になります。まあ、習慣というやつですね。
選択肢はいくつかあって、基本は「明治 ブルガリアヨーグルト プレーン」です。それが月に1、2度、ちょっと贅沢な「小岩井 生乳100%ヨーグルト」に切り替わります。好きなヨーグルトをひとつ挙げろと言われたら迷わずこれです。毎日食べることができたらそれはステキなことだなあとおもう。
できないわけではありません。贅沢と言ってもたかだか数十円のちがいです。量も若干少ないけど、でも毎日ちょっとずつだし、そもそも200円くらいのものなんだからそんなに悩むようなことでもない。
にもかかわらずそうしないのは、そこに漠然とした不安があるからです。つまり、毎日のように小岩井のヨーグルトを食べて、今と同じよろこびを味わうことができるんだろうか?というような。
ふだんがスタンダードで、ときどきグレードが上がるときのプレミアム感といったらありません。うれしいし、わくわくするし、しみじみ美味しいとおもうし、幸せなことこの上なしです。ひとしきり楽しんで、明日からまたスタンダードに戻るときの一抹のさみしさも含めて、心と舌をたっぷりと満たしてくれます。さながらそれは春の空気をいっとき薄紅に染めるソメイヨシノのごとしです。
でももしこれが毎日プレミアムだったらどうだろう?もしソメイヨシノが1年中咲き誇っていたら?毎日プレミアムならそれはもはやプレミアムではなく、スタンダードです。それでも僕らは以前と変わらず、そこに心と体の隅々にまで行き渡るようなしみじみとした甘いよろこびを見出せるだろうか?むしろもう1ランク上のプレミアムを求めることになるんじゃないだろうか?
ここには「豊かさ」における大きなジレンマがあります。豊かさにはここでおしまいという上限が存在しません。満たされれば満たされるだけ、それに比例して満足へのハードルも高くなっていきます。豊かな暮らしは、幸せにかかるコストも同時に上げてしまうのです。安定した生活を確立した人々ほど「本当の豊かさ」を問いかけがちなのも、おそらくこのジレンマと無関係ではないでしょう。
家のテレビがどれだけ大きくなろうと、慣れてしまえばそれがスタンダードです。高価な宝飾品をどれだけ身につけようと、慣れてしまえばやはりそれがスタンダードです。よろこびを隅々まで100%味わうためには、その当たり前でないことが欠かせません。だとするとたとえば幸福しかないということになっている天国で、僕らは本当に幸福を感じることができるんだろうか?初めはともかく、やがてまたそうでなかったときと同じきもちで「本当の幸福」について問いかけることになるんじゃないだろうか?
とまあそんなことを考えながら、やっぱり小岩井はときどきでいいよな、と改めて思うのです。
2015年6月8日月曜日
膝枕と言いながら膝が何もしていない件について
そもそもの発端は「私は膝枕における膝が詐称である確かな証拠をにぎっています」「どうお受け止めになられてもかまいませんが、誠意ある対応が見られない場合は罪なき奥様にもこの事実をお伝えするつもりです」という脅迫めいた匿名の投書が舞いこんできたことにあるのです。もちろんとんだ言いがかりであって、こんな怪文書は恐るるに足りません。腕の立つ弁護士においで願うまでもなく、反論は辞書一冊あればこと足ります。切手もなければ宛名もないからひょっとしたら投函する部屋をまちがえたのかもしれないけど、万が一ということもあるし、念のために辞書を引っぱり出してみましょう。うちにあるのは使い方が雑なせいか最初の数十ページが失われて「アスパラギン」から始まるきわめて不完全な辞書なのですが、今回はそれを気にする必要もありますまい。
膝といえば腿と脛をつなぐ関節部分のことですが、膝枕でこの関節に頭をのせる人はまずいません。別にいたっていいけど、一般的に言って大多数の人がその頭をのせるのは太ももです。だとするとこれはどう考えても「腿枕」であるはずなのに、なぜここで何もしていない膝が横からしゃしゃり出てくるのか、その理由は「膝」という言葉の知られざる意味にあります。
ひざ【膝】
①大腿の下端と下腿の上端との間の関節部の前面。ひざがしら。
②大腿部。もも。
膝=腿だと……!?そんな強弁が通用するなら、脛だって膝でいいことになるじゃないか……?脛が膝でいいとすればもはや足がまるまる膝ということになるし、足が膝なら腰だって膝みたいなものです。またその理屈でいけば上半身はおそらくまるまる「肘」ということになりましょう。肘と膝の仁義なき戦いにおいてどちらに軍配が上がるかは神のみぞ知るところですが、いずれ膝が全身を征服しないともかぎりません。ここに至ると人すなわち膝であり、meというかkneeです。その先にはおそらく「膝思う、ゆえに膝あり」という価値観の大きな転換が待ち受けています。
しかしまあ僕自身はじぶんが人だろうが膝だろうがカプリチョーザだろうが一向かまわないので、それならそれで別によろしい。どちらかというと気になるのは、「膝枕」とはっきり言っているのに関節部としてのそれを一度も思い浮かべずにいたことのほうです。
それは「五社英雄」とか「野茂英雄」という名前をみても、それをいちいち "hero" と認識したりしないのと同じ原理なんだろうか?
ということをつらつら考えていたら眠れなくなるどころか逆にすごく眠たくなってすやすやと安らかな寝息をたてる6月です。みなさんお忘れでないかしらと内心ハラハラしつつ来週はオントローロ「00」、セットリストはほぼ同じですが、ちょっぴり変化もございます(ホントにちょっぴりですけど)。直前になっていきなり全員キャンセルとかになりませんように。
あと、どうでもいいけど「大吾」を英語にするとひょっとして「スーパーサイズ・ミー(super size me)」になるんじゃないのか……?
2015年6月5日金曜日
なぜそのタイトルはこれほどまでにはびこっているのか
「なぜ○○は△△なのか」というタイトルの乱発ぶりにいいかげん食傷気味なのです。その走りはおそらく2005年の「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」だとおもいますが、もう10年もたつと言うのに今もこうしたタイトルの勢いが衰えないのには驚かされます。今年に入ってからも「なぜ、この人と話をすると楽になるのか」が話題になったばかりです。
お断りするまでもないことですが、書籍の内容について云々したいわけではありません。本それ自体の良し悪しはひとまず脇に置いてよろしい。そうではなくて、仮にも出版のプロフェッショナルが臆面もなく猿真似で横並びにタイトルをつけるなんて恥を知れこのすっとこどっこいと身もふたもなく言ってしまいたいのです。
ほんの一部をピックアップして並べてみましょう。
・なぜ人はショッピングモールが大好きなのか
・なぜ世界でいま、「ハゲ」がクールなのか
・なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?
・なぜ酔った女性を口説くのは「非常に危険」なのか?
・なぜ、東大生はカレーが好きなのか
・バカボンのママはなぜ美人なのか
・冥途の旅はなぜ四十九日なのか
・なぜ、健康な人は「運動」をしないのか?
・時計の針はなぜ右回りなのか
・怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか
・映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?
・なぜ、A型がいちばん美人なのか?
・なぜルパン三世は泥棒なのにヒーローなのか?
・なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか
・なぜ皇居ランナーの大半が年収700万以上なのか
・なぜ感染症が人類最大の敵なのか?
・なぜ他人の不幸は蜜の味なのか
・稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?
・頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?
・なぜ、あなたの話はつまらないのか?
・天皇はなぜ万世一系なのか
・なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか?
・なぜ日本車は世界最強なのか
・なぜ一流の経営者は即興コメディを学ぶのか?
・なぜ、マーガリンは体に悪いのか?
・なぜ20円のチョコでビルが建つのか?
・悪口を言う人は、なぜ、悪口を言うのか
・なぜ、あの人が話すと意見が通るのか
・なぜ『三四郎』は悲恋に終わるのか
・なぜ貯金好きはお金持ちになれないのか?
・なぜ、ラーメン屋の8割が3年で消えるのか?
・あの夏、サバ缶はなぜ売れたのか?
・一流の人は、なぜA3ノートを使うのか?
・なぜ、「白雪姫」は毒リンゴを食べたのか
・携帯電話はなぜつながるのか
・なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか
・武士はなぜ腹を切るのか
・どうせ死ぬのになぜ生きるのか
・子どもはなぜ「跳び箱」を跳ばなければならないのか?
・なぜ7割のエントリーシートは、読まずに捨てられるのか?
・筋トレをする人は、なぜ、仕事で結果を出せるのか?
・男は、なぜ缶コーヒーが好きなのか?
・なぜ、カフェのコーヒーは「高い」と思わないのか?
・なぜ電車の席は両端が人気なのか
・なぜビジネスホテルは、一泊四千円でやっていけるのか
・日本一サービスにうるさい街で、なぜ日本一古くさいキャバレーが愛され続けるのか
・NHKはなぜ金持ちなのか?
・なぜ、腐女子は男尊女卑なのか?
・飛行機事故はなぜなくならないのか
・なぜ彼女たちはカープに萌えるのか
・なぜ妻は、夫のやることなすこと気に食わないのか
・なぜ、町の不動産屋はつぶれないのか
・なぜ、男は「女はバカ」と思ってしまうのか
・江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?
・検索エンジンはなぜ見つけるのか
・タコは、なぜ元気なのか
※最後の一冊だけは根本からして何かが決定的にちがうような気もするのですが、個人的にたいへん好感が持てるのでリンクを貼ってあります。
僕がここまで腹を立てているのは、そもそもこうしたタイトルのつけかたがまったくもって論理的ではないからです。
もちろんコストをかけて本をつくる以上、いっぱい売れてくれなくては困ります。そのためにできることは何でもする、という姿勢も当然です。僕だって売れることが「本当に確か」なら、こうしたタイトルを推奨するにやぶさかではありません。あざとかろうが、二番煎じだろうが、それこそ「だって売れるんだもの」の一言で済みます。
問題は、まったく同内容の本を異なるタイトルで発売しないかぎり、その売れ行きがタイトルのおかげなのかどうかを判別する手立てはない、という点です。ですよね?ひょっとしたら本の内容が単純にすごく良かったからだけなのかもしれない。あるいは挿絵作家の人気にあやかったものかもしれない。でも実際に売れた要因というのはそもそもそれが何であれ、購入者全員に動機を訊いて回らないことには絶対にわかりっこないのです。にもかかわらずタイトルひとつで売れ行きが変わると考えるならこれが非論理的でなくてなんだろう?
タイトルによって売れ行きが爆発的に伸びた書籍もあります。リチャード・ドーキンスの世界的名著「利己的な遺伝子」もそのひとつです。もともとは「生物= 生存機械論」というしかつめらしい邦題で発行されていましたが、重版時に直訳へと改題したことで一躍日本でもベストセラーになり、今では古典として定着しています。前述のように変更したタイトルそのものがどれだけ売れ行きに寄与したかについては確かめようがありませんが、少なくとも使用前と使用後では明らかに認知度が大きく異なること、プラスそれまでの常識をひっくり返す挑発的な単語から、影響の大部分をタイトル自体に求めることができるとみていいでしょう。原題にしてもその直訳にしても、実際すごく、いいタイトルだとおもう。
しかしそれも改題したからわかることであって、これが仮に最初から「利己的な遺伝子」だったら、ベストセラーの要因をタイトルに求めることはできません。目を引くいいタイトルであることにはちがいないし、きっとそのためもあるだろうと考えることはできても、確証は得られないのです。
では百歩譲って、たとえば「さおだけ屋はなぜ〜」が売れた理由のひとつにそのタイトルがあったと仮定してみましょう。仮にそうだとするとそれは、「多くの人が共有できる疑問」だったからだと僕はおもいます。「あー!それ前から知りたいとおもってた!」とシンパシーを感じるからこそ、手に取るのです。単に疑問形だから気を引くわけではありません。当たり前と言えば当たり前という気がするけど、その上で先に挙げたタイトル群を眺めてみてください。その大半が「知りたい?」と聞かれたら「別にどっちでもいいけど」としか答えようのない無用な疑問であることに気がつくはずです。それどころか「なぜ今日は空が曇っているのか」と同じくらい不毛な疑問も散見されます。
先例にあやかるというのなら、「なぜ」という疑問符をぺたっとただ無批判にくっつけるのではなく、せめて「多くの人がシンプルに知りたいとおもえる疑問」を持ち出すことが最低条件だと僕は考えます。「おれの秘密知りたい?」みたいな独りよがりな疑問を一方的に突きつけられていったい誰が興味を示すというのか、もういちどよく考えてみていただきたい。この手のタイトルのほとんどが雰囲気ばかりでまったく論理的ではない、というのはそういう意味です。それでもなお押し通すだけの甲斐が果たして本当にあるだろうか?
とまあこれが本日の前置きだったのですが、いつものごとくパンパンに膨れ上がってしまったので、これよりはるかにどうでもいいこのつづきはまた次回に先送りです。ごきげんよう!
2015年6月2日火曜日
文字通り脛にキズを持つ男がしずかにボートを漕ぎ出す日
開演10分前にビルの屋上で柵を乗り越えそこねて股間を強打、足を伸ばすも下に届かずにくるりと回転、さらに脛を強打、そのまま体勢を崩してズデンと肩から落下、じんじんする脛を抱えながら無言でのたうち回ったことなどおくびにも出さず、紳士的な笑顔で何ごともなかったように開演、コブみたいになった脛の腫れを誰にも悟られることなく、オントローロ -01はぶじ終了いたしました。
ご来場くださったみなさまには延々と独演のつづく長丁場をお付き合いいただきまこと感謝に堪えません。本当にありがとう!!TRINCHグッズをお持ちの方もいて感無量です。うれしかった……!
詩にはこんな形があって、こんな魅せかたもある、もっとおもしろくできるし、たぶんここには思いもよらない未知の世界が広がっている、というやわらかな反骨心から始まってブラックミュージックと混ざり合い、気づけば4枚ものアルバムをリリースした今、リーディングとは何か、ひいては言葉を声にのせることのおもしろさをあらためて、というかより体感してもらうべくおそるおそる立ち上げたイベント「オントローロ」ですが、帰ったらパンツが裂けていたことと強打した脛のひりひりを除けば概ね思い描いていたとおりの形になったのではないかとおもいます。あとはみなさまにお楽しみいただけていることをひたすら願うばかりです。
次回は2週間後の「00」、そしてその次の「01」はおそらく夏になります。新作、旧作、アカペラ、リミックス、あとは本来よむつもりのなかった「脱落者/formerly known as a super brother」みたいな詩までしれっと紛れ込ませつつ、さんざんビートと戯れてきたからこそのリズム、間、声色、山椒のようにぱらぱらとまぶされるバカバカしさが織りなす彩り豊かなリーディングをぜひ一度ご賞味においでませ。
もうあれだ、ライフワークにするわ、これ。