2014年9月19日金曜日

ピス田助手の手記ジュブナイル <前編>


ムール貝博士に命を狙われるような日々を儚んだダイゴくんが団地の屋上から飛び下りようとした、という話は聞いていた。死なずにすんだのはてっきりうまいこと着地してしまったからだとばかりおもっていたが、どうもそうではないらしい。

わたしはそれを、真菰という茶飲み友達から聞いた。彼女は今まさに人がひとり飛び下りんとする瞬間に出くわし、たいへんな冷や汗をかいたと言ってそのときの状況をつぶさに話してくれた。あとになってもろもろのことを考え合わせてみるに、このとき彼女の出くわした男がおそらくダイゴくんだったろうとわたしはおもう。

とここまで書いてつらつら考えるに、真菰は相手を青年だと言っていたから、やっぱり全然ちがう気がする。それはまあそれでかまわない。もうひとりの登場人物が誰であろうがなかろうがどのみちあまり、というかまったく問題ではない。わたしはただ、彼女の話がおもしろいとおもったからそれを書き留めるだけだ。彼女が話してくれたほど上手にまとめられるかわからないが、ことの次第をなるべく簡潔に再構成してみよう。




真菰はときどき、その屋上にきた。

立入禁止になっているから、住人はこない。屋上へ通じる扉には鍵もかかっている。ただ林立する十数棟のうち、12号棟だけそれが徹底されていなかった。どこにだって例外はある。団地の防犯事情もその例外ではない……というのはもちろん例外のうちに入らないという意味ではなく、例外があることの例に漏れないという意味だが、ともかく真菰はその例外を知っていた。団地の住人ではなかったが、そんな様子はちらとも見せず、気が向くとやってきてじぶんの部屋のように使った。一帯が高台で眺めもいいから、日々の毒気を抜くにはおあつらえ向きの場所だった。

ところがその日は先客がいた。

例外があるということは、それを知る誰かがいるということだ。誰かが知っているなら、他の誰かが知っていてもふしぎはない。天知る、地知る、我知る、子知る。何をか知る無しと謂わんや。真菰はちいさく舌打ちした。

そこにいたのは青年だった。青年は屋上の端にいた。もともと憩うような場としてあるわけではないから、落下防止の柵はない。押せば簡単にころりと落ちる、巨大な直方体の縁に青年は立っていた。

それから真菰は、靴をみた。青年は裸足で、何も履いていない。その足下に、靴がそろえて置いてあった。黄色の地に白のランニングシューズで、ニューバランスで、たぶんぴかぴか、とこまかな描写を加えてもいいが、どんな靴であれ同じことだからべつに端折ってもいい。大枠のところはよって件の如しだ。この状況で言い足すべきことがさて、他にあるだろうか?

「動かないで」と真菰は言った。「やめて。おねがいだから」

青年はいぶかしげに真菰を見ていた。人生の総仕上げにいざ取りかかろうとするタイミングで、見知らぬ他人が台本よろしく闖入してきたら誰だってそういう顔になるにちがいないという顔をしていた。無理もない。そしておそらくこの場においては、相対する立場でありながらふたりとも寸分違わぬ印象を共有していただろう。すなわち、「なんかめんどくさいことになった」という苦々しいばつの悪さを。

すーはーと大きく呼吸を整えて、真菰はもういちど声をかけた。「靴を履いて。とりあえず」
青年はすこし間を置いてから言った。「誰ですか?」
「誰って……そんなのこっちが聞きたい。いいから靴を履いて」
「ひとりにしてくれませんか」
「靴を履いてからでもいいでしょう?」
「脱ぐか履くかは僕が決めます」
「わたしが安心できないの」
「じゃあ出ていけばいい」
「どうしてわたしが出ていくと安心できるってことになるの?」
「関わらずにはすむでしょう」
「えーとね」と真菰は苛立つ気持ちを抑えながらゆっくりと切り出した。「ここ、立入禁止でしょ」

青年は答えなかった。無視をしているわけでもないが、耳を傾けるふうでもない。どこか心あらずで、ただただこの無為な時間がにわか雨のように過ぎ去ってくれるのを待っているかのようにもみえた。実際そうだったのだろう。

「ちがうのちがうの。立入禁止のことで責めたいわけじゃないの。だってそれはわたしも同じなんだから。そうじゃなくて、よく考えてみて。立入禁止の場所に人がふたり忍びこんで、そのうちのひとりが飛び下りるとするでしょう?そうするとどうなるとおもう?」
青年はまたすこし間を置いて、答えずに肩をすくめた。
「よく考えて。のこされる人、って要はわたしのことだけど、かわいそうとかそういう心理的にどうこうじゃなくて、もっと現実的な意味で、困ることになる、とおもわない?しかもちょっとシャレにならないっていうか。わかる?」
「わからない」
「考えて。でなければ靴を履いて」
「うるさい人だな」
「うるさくもなるよ!」と真菰はおもわず声を荒げた。「頭のネジ外れてるんじゃないの?この状況だとどう考えてもわたしに殺人の容疑がかかるでしょうが!偶然居合わせただけですなんて誰がそれを証明してくれるの?化けて出て出頭してくれる?ていうか何でわたしが知りもしない人に対するありもしない犯罪の当事者にいきなりならなくちゃいけないの!どこの誰だか知らないけどちょっとは考えてよわたしだって好きこのんでこんな状況に首突っ込んでるんじゃ……わああ、待って待ってちょっと待ってごめん落ち着いて、わたしも落ち着くから、ちがうの、そうじゃなくって、ていうかそうなんだけど、そう、そうなの。きもちはわかるし、できればかろやかにフワッと身投げさせてあげたいのは山々なんだけど、うっかりここに居合わせちゃった以上、ひとまず今日のところは、そう、つまり……予定をキャンセルしてほしいってことなの。次はほら、誰もいないときにひとりでゆっくり。ね?どのみちこんなんじゃ落ち着いて身罷れっこないでしょう?」

青年は長くやるせないため息をついた。今にも煙草を1本取り出しそうな倦怠感が全身からにじみ出ている。嗜まないのか持ち合わせていないのか、しかし彼はそうはしなかった。ただ視線をどこともなく泳がせながら、身じろぎひとつせず、立ち尽くしていた。考えなくてもわかりそうなことだが、おそらく彼は「なんだってこんな目に遭っているのか」という思いをつよくしていたにちがいない。

それからふいに、顔つきが変わった。すくなくとも真菰の目にはそう映った。眉間にしわが寄り、たれこめる暗雲のようにみるみる表情が翳っていく。人が不機嫌になるのはたとえば、見たくないものを見たとき、知りたくないことを知ったとき、それから努めて暈していた思いにうっかりピントが合ってしまったようなときだ。真菰はぎくりとした。怒らせたかも。すくなくともお花畑で手を取りながらあなたもわたしもハッピーで異議なし、という雰囲気からはほど遠い。そうおもってまた声をかけようとすると、今度は青年が口をひらいた。「もういいですか」
「いいって……何もよくないよ」
「ひとりになりたいんです」
「わたしだってひとりになりたくてここにきてるんです」
「あとから来たのはそっちでしょう」
「そのせいで牢屋に入ることになりそう」
「それでなくともうんざりなのに」と青年はさっきよりも大きなため息をついた。「この期に及んでもうたくさんだ」
「うんざりなのは」と口をついて出たその先の言葉を呑みこんで、真菰は言い換えた。「そっちだよね。もちろん」



後編につづく。

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