2011年11月28日月曜日

「ゆるせない」という心のありようのこと



その関係が直接的であれ間接的であれ、明らかに罪だとおもわれることが目の前にあり、しかも自分の力ではそれ以上どうにもしようがないというようなとき、「ゆるせない」と人は言うのです。

僕が年をとったから目につくだけなのか、あるいは実際にそういう例が増えているのか、それはわからないけれど、わりとしょっちゅうその一言を目にしたり耳にすることが増えました。

腹に据えかねて地団駄を踏むことは、日々においていくらでもあります。相対する罪(と思われるもの)が大きければ大きいほど、内なる感情が激しさを増すのは当然です。かく言う僕もどちらかといえば些細なことにもいちいちブーブー心のクラクションを鳴らすほうなので、不条理や理不尽に対して抗うことそのものに異論はありません。黙れば自動的にそれらを受け入れることにもなるし、健全な社会と心の平穏を保つためにも毅然たる意志表明や発散は必要です。気に食わない上役を「ハゲ」と罵って何の不都合がありましょう。本人のいないところで大いに気勢を上げたらよろしい。そういうことなら僕も拡声器で参加して盛大にブーブー合唱したい。

僕が気になっているのは、これ以上どうにもならないと思われるところで結論として導きだされる「ゆるせない」という心のありようです。ゆるすこと能わず(=不可能)と明言しているのだから、これくらい突き放した激烈な感情表現はちょっと他にない。ですよね?おまけにすべてがそこでパタンと完結しています。だからどうという連結ではなく、むしろきっぱりとした訣別表明です。天岩戸が閉じるのに似ている。

具体的な例を挙げることは憚るけれど、僕だってある種の被害を被ったら素直にゆるせる自信はありません。こんなふうに訥々と話していながら、じっさいには復讐の鬼と化す可能性も十分に…というかすごくある。しかしだからこそそんな未来のじぶんにブレーキをかけるためにも、ここできちんと考えておきたいのです。「ゆるせない」から何なのか?

それは解きほぐせば「仮にゆるしたいというきもちがあったとしても、ムリ」ということです。もう一歩踏みこんで意訳するなら「わたしの溜飲が下がらないかぎり、あなたを永劫お怨み申し上げます」という物言いに近いものがあります。言うなればネガティブな結果に対してネガティブな見解で応酬しているのです。でも、そんな不毛なやりとりってあるだろうか?控えめにみても健全とはちょっと言いがたいし、こどもたちに胸を張れるような態度でもない。仮に正義感から出た言葉だとしても、明らかに用いかたをとりちがえている。プラスに作用しないものなら、正義に何の意味がありましょう。

目には目を、歯には歯を、ネガティブにはネガティブを、憎しみには憎しみを…ぜんぶいっしょじゃないか、そりゃ平和なんか望むべくもないよな、とこどもが肩をすくめたら、僕らはダブルスタンダードを用いることなく誠実に話すことができるだろうか?

ポジティブであれ、と言いたいわけではありません。また、ネガティブなきもちを持つなということでもありません。先にも書いたように、僕だってある種の状況下にあれば自制できる自信はない。気の済むまで罵りたいし、毒づきたいし、怨むことになってもしかたないよなとおもう。ただそれを外に向かって、さも健全なことででもあるかのように発信する意味がどれほどあるのかということを問いたいのです。

そもそもゆるすゆるさないという感情的天秤に問題を乗せた時点で、焦点を罪(客観)から怨み(主観)に移し替えてしまっているとなぜ気づかないのか?もちろん、いろいろな状況からシンプルに罪を罰することができない(=どうにもならない)からこういう話になるんだけど、だからといって「じゃあ怨みつらみに焦点を切り替えましょう」というのはどう考えてもお門違いです。それはどこまでもその人の問題であって、わざわざ対外的に表明するようなことではまったくない。

決して美しいとは言いがたい感情を持ちつづけますと宣言した人に、僕らはどう向き合ったらよいのだろう?できればそういうきもちは水に流してほしいとおもうけど、流せないと言われたらそれまでだし、一方で流せないきもちもすごくよくわかるし、だとするとみんなが負のスパイラルに陥ってかなしいおもいをいつまでも抱えこむことになるだけです。いったい誰がそれを望んだのか?いつの間にこんなことになってしまったんだ?

信念をもって怒れる人は「そんなつもりはない」と言うかもしれません。そうでしょうとも、と僕もおもう。だからこそ、他にもっと言いようがありそうなものなのに、そのへんのことを考えることなく、わりと安易に「ゆるせない」と公言する大人の多さに辟易しているのです。少なくとも大真面目な顔をして言うことじゃないとおもうし、それに対して「そうですよね」とわかったような顔で頷く人には何をか言わんやです。

大きな争いのちいさなはじまりは、いつだってこういう目立たないところにさりげなく芽吹いている…とはおもわないんだろうか?スケールがあまりにも日常的で、誰も?

3 件のコメント:

  1. ただの昔話になってしまったので、長文を削除して、今、ただ一言のこしたいことは、すべてのゆるせないが「やるせない」のききまちがいだったら良いのだ…に尽きます。

    本当はよくないのですが
    (ゆるせないことがないと、ゆるそうという徳をうしなってしまいますね)

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  2. そう言われれば、たしかに簡単に使える言葉じゃない気がしますね。
    この話を踏まえて、僕は許せないことってなんかあっただろうか、と考えると、なにも思いつきません。
    思い出せないだけかもしれないけど。
    思い出せないくらいだから、いいのかな。

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  3. > f.k さん

    鬼みたいな憤怒の形相で「やるせない」と絞り出すようにつぶやいてたら、なんかそれだけで好きになっちゃいそうですね。わるくない!


    > 匿名さん

    こんなこと書いといて何ですけど、僕は「あらかじめ皮をむいてある甘栗」がゆるせないです。思い出したら腹立ってきた。あんにゃろう!

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