2011年11月8日火曜日

幽霊は人口にきちんと比例して増えているのか?



たいへん困ったことになったのだけれど、そうかといって困りすぎるのも困りものなので、とりあえずオリンパスみたいに問題を先送りにしておこうとおもうのです。悔やんでも悔やみきれないなら悔やんでも仕方がありません。だって悔やみきれないんだから。かんでもかんでも垂れつづける鼻水は栓をするのがいちばんよろしい。

取り戻すより挽回することを考えようとおもうけれど、しかしこういうときにかぶる布団はどうしてこうも温かいんだろう!


 *


何だか知らないうちに地球に暮らすヒトの数が70億をこえたらしくて、そう言われても数が極大すぎていまいちピンとこないまま、ピンとこないなりに得心したような顔をしながら「ヘー」と驚いているのです。そんなにいたって仕方ないともおもうけれど、じゃあといって一度始めたことをなかったことにするわけにもいかないし、明るい家族計画的であろうとなかろうと、この世にコロンとまろび出てしまった僕らとしては、ことの成り行きをバナナでも食べながらしずかに見守るほかありません。つい200年前くらいまではたしか10億に満たなかったはずなのに、いったんはずみがつくと今度は歯止めがきかないらしい。

 しかしこれだけ増えても床が抜けないんだから、地球というのはよくよく頑丈にできているものだとおもう。



 かねてからなんとなく疑問におもっていることがあって、ヒトが増えたり減ったりという地球人口の話になると、決まってそれをおもいだします。最後にこのことを思い出したのはたしか90年代だったとおもうけれど、宇宙のはしっこに何があるのかを考えるのにも似た埒のない疑問なので、気づけばだいたい忘れているのです。


 疑問:幽霊は人口にきちんと比例して増えているのか?


 僕はおばけとか宇宙人を鼻で笑えるほど現実主義者ではありません。そもそもじぶんの実感する世界をそれほど確かだとは考えていないのです。姿が見えないからと言って、人や獣や虫のとなりにそれ以外の席が用意されていないことにはならない。ですよね?

雪男的生き物を指すイエティという名が世界に知られるようになってから半世紀がたつ今年は、そのありやなしやを真剣にああでもないこうでもないと議論する国際会議がロシアでひらかれたそうだけれど、ひとにぎりの体毛や足跡をうっかりのこしてしまっただけでも彼らからしてみれば大きな手抜かりなのに、これ以上むやみな家宅捜索をつづけられたらそれまでの安穏とした暮らしが不要に脅かされることになるのではなかろうかと、むしろそっちが気になってしかたないのです。いるいないが問題になるのなら、神様を探すほうがよほど人々のためになりそうなものだという気もするし、だいたいなぜわざわざ標高5000メートルの雪山で危険をおかしてまで彼らの暮らしを暴かなければならないのか、ちっとも理解できない。イエティにはイエティの日々があると、慮れない理由がどこにありましょう?

幽霊もあんまりこわいのは困るけれど、いるならいるでしかたがないとおもう。だいたい気のせいだと躍起になって否定したところで、それはこちらの問題であって幽霊の問題ではありません。いるとなったら、こちらの思惑などおかまいなしに依然としていつづけることは必定です。そうなるともう、何のために幽霊を認めないのかもよくわからなくなってくる。僕が願うのは、暮らしをおびやかさないでほしいというただその1点のみです。透けたりするのはちょっと…とおもうけど、人の話を聞くとどうも「シースルーがデフォルト」というわけではないようだから、その点はよしとしましょう。気さくなやつなら昼間に出てきてもかまわない。

そういうわけで、彼らの市民権については僕のなかで折り合いがついています。共存共栄の精神をもって、未来なき幽霊の辞書に「栄」という字があるかはわからないけれど、今後もこの良好な関係を保つにやぶさかではありません。

ところでここでは便宜上、市民権ということばを使ったけれど、そうなると問題になってくるのはその人口です。地球において実体をもつ人口が70億をこえているとすると、これまで生きて今は実体をもたない人々の数というのは、ちょっと考えただけでも頭がくらくらするようなことになっているのではありますまいか。

右をむいても左をむいてもうらめしいとなれば、おちおちご飯をかきこむこともできません。いくら目には見えないからといって、そんな無尽蔵にうようよされても困ります。ひょっとして山の頂上で深呼吸をしたら幽霊のひとりやふたり、素麺みたいにつるっと吸いこんでるかもしれないし、じぶんしかいないと思っていた部屋ではやんややんやの大宴会が無音で今まさに催されているかもしれないのです。共存の前提を今一度、根底から考え直してみる必要があるのだとしたらどうだろう?見えないというのは見えていても気づかないことと実質的には同じであることを考慮に入れるべきなのではないか?というのはつまり…AKBは本当に48人いるのか?サンシャイン60は本当に60階建てなのか?ウルトラマン80の「80」はひょっとして見えない79人を足した数なのではないか?KGBAK47は本当にアイドルグループではないのか?

しかし…


ズズー


(お茶をのんでいます)


実際のところ、そういう話は聞きません。怪談が今よりもはるかに幅を利かせていた時代とくらべて、幽霊がふえたといういささかの印象もなければ、増えつづける人口のために閻魔さまが腰をわるくしたり、過労で入院してナースにいたずら、といった噂も聞きません。

シンプルに考えてみても、これはちょっと妙なことです。べつに閻魔さまがナースにいたずらすべきだと主張したいわけではないけれど、そうあってもふしぎはないくらい人はふえているのに、幽霊が急激に増えたりはしていないらしい。なぜ幽霊は目に見えて増えないのか?いえ、じっさい見えないけどもこの場合はそういう意味ではなく、程度をあらわす慣用句であって幽霊の視認は問題で、いえこの場合のシニンももちろん死人ではなくて目で認めるという意味の漢語であって、えーと、困ったな。収拾がつかない。


まあどのみち明日には忘れているのです。

現世における幽霊の数には、ディズニーランドみたいに入場制限とか抽選があるのだとおもうことにしたい。

2 件のコメント:

  1. こういう話、大好きです。
    個人的には、映画『コンタクト』や漫画『攻殻機動隊』みたいなものか、多次元の方にいらっしゃるんじゃないかと思っています。ドラえもんのポケットみたいな。
    霊感の強いというとある芸人さんが、以前テレビで「戸棚を開けたら女の幽霊がいて、うわってびっくりされて(幽霊に)消えた」という話をしていました。とても好きな話です(ええ?)

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  2. > miwaさん

    幽霊にびっくりされる話はいいですね。

    ただ「こうだったらいいなあ」という感慨よりも、わりとリアルに気配を感じたりするので距離のとりかたがむずかしくて困ります。

    ドラえもんのポッケくらいファンタジックならいいんですけどねえ。

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