このところ世間では10年に1度の大寒波、もしくは安田タイル工業の革新的な新製品である通称ワンカップがとくに話題にも上らないことで持ちきりですが、鑑みるにここらで一度あらためて、きちんと弊社の説明とかアピールとか示威をなんなら威嚇も込みでしておくほうがいいように思われるのです。
というのも、弊社を知る人に「安田タイル工業をご存知ですか」と尋ねるとまず100%「知ってます」と返ってくるほど高い認知度を誇るにもかかわらず、そのあとに「いまいちよくわかってないですけど」と付言される割合もまた100%なのです。
「サクセス」とか「ビリーブ」とか「アスタラビスタベイビー」とか「吹き抜ける一陣の蒼い風に揺れる君の髪のキューティクル」とかそういう社名ならわかりますというか、わからないのはわかります。何の会社か全然わからないし、その気持ちはすごくよくわかる。しかし弊社は「安田タイル工業」です。「タイル」「工業」ときたらそれはもう「パン」「焼く」と同じくらい直球かつ明白だし、パン屋に「パンを焼く店」と名付けるようなものであって、なぜいまいちよくわからないと言われてしまうのか、どうも解せないものがあります。
東京支社はアルスクモノイの店内のどこかにあります
安田タイル工業は、タイル製造を旨とする心の中小企業です。だいじなことなのでもう一度言いますが、タイル!製造を!旨とする!心の!中小企業です!
そしてまた、タイルを主要な製品として位置づけながらもその一切を必要としない革新的なアプローチによって、タイルがなくともタイルたりうることを理屈抜きで証明した、世界でも類を見ない会社として数人の人々に知られています。
タイルがなくともタイルたりうるということはつまり、タイルを製造せずともタイル製造たりうるということです。弊社の長い歴史におけるまさしく最大のブレイクスルーがここにあったと申せましょう。なんとなれば何物にも縛られない、自由かつ気ままな無限の可能性しか、ここにはないからです。
しかしもちろん、何でもいいというわけにはいきません。仮にこの世のすべてがタイルだとしたら、当然タイルと名付ける意味も消え失せます。したがって、こう言い換えるべきでしょう。弊社のタイルは今も歴然と陶板でありながら同時にひとつの概念へと昇華したのです、と。
ではタイルとは何か?
そもそも弊社の設立は、人々の暮らしをより豊かにするという至極真っ当な企業理念に基づいています。豊かさは主として物質的な豊かさと精神的な豊かさの2つに分けられますが、ただそこには常に「意味」「甲斐」「価値」が付き纏っていて、それらのうちひとつでも満たさない限り、豊かであるとは言われません。
でも、本当にそうだろうか?意味や甲斐や価値がなくても、心を満たしてくれるものはあるんじゃないだろうか?
というか豊かさの何たるかを問うこと自体がすでに豊かであることの立派すぎる証拠であって、そういうもともと豊かな連中は初手からお呼びじゃねえんだよ、去れ!とキレ散らかしたくなる人々の心にそっと寄り添ってくれるものがあるんじゃないだろうか?
たとえば道端に落ちているバナナの皮です。多くの人にとってそれは単なるゴミですが、弊社の社員たちのように目を留めてしんみりとシンパシーを抱く人もいます。ゴミではないとまでは言わないし、実際100%ゴミだし、もちろん意味も甲斐も価値もない。それでも何か胸に響くものがある。
これがタイルです。物質的、精神的に続く第三の豊かさこそがタイルであり、ここに弊社のレゾンデートルがあります。
理解しようと努める必要はありません。気に留める人はその時点で直観的に理解しているはずです。
何を表現しているとか、どんな活動をしているとかもまた、あまり問題ではありません。タイルによって何ごとかを成そうとしているのではないからです。むしろタイルあるところに弊社ありと言うほうがおそらく当を得ています。
したがって昔も今も弊社としては、登山家ジョージ・マロリーよろしく「Because it's there.(そこにタイルがあるからだ)」と申し上げるほかないのです。