2017年2月25日土曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その262


ヨークシャー照れ屋さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)イングランド北部に住む照れ屋のことですね。


Q: 寂しがり癖を抑える方法があったら教えてください。さしてお酒が好きでも強くもないくせに、寂しいからという理由でついつい飲みに行ってしまい、このまま行くとお財布と体がすかすかになりそうで心配です。


なるほど、好きでも強くもないのに飲みにいってしまう、というのはこれはもう正真正銘、まじりっけなしの寂しがりですね。

しかし人付き合いがそれほど気楽に感じられない少数の人々からすると、それは社交性が高いことの裏返しでもあります。ひょっとするとお気づきでないかもしれませんが、立派な長所のひとつです。財布が空っぽになるくらいいいじゃないかとおもいます。僕なんか飲みもしないのにいつも空っぽですよ。

とはいえ、さして好きでも強くもないのに、というのはさすがにちょっと気の毒な気もします。体にも負担がかかるし、できればほどほどに楽しみたいですよね。お酒をほどほどに嗜める社交的な人というのはそのどちらも持ち合わせない僕にとっては憧れというか天敵というか、近くにいたら舌打ちせずにはいられないタイプのひとつですが、そのへんはまあむにゃむにゃとお茶を濁しておきましょう。

おもうに寂しさとは、静まり返ると聞こえてくる鼓動のひとつです。その鼓動が激しい人もいれば、かすかな人もいます。僕なんかは微弱すぎて心電図が直線のままぴくりとも反応しないレベルです。

鼓動はいつでも鳴っていますが、いつでも聞こえるわけではありません。ふだん聞こえないのは、あれをしたりこれをしたりする意識のノイズに紛れているからです。したがって、鼓動を遮断したかったらあれをしたりこれをしたりするのがいちばんということになります。没頭する趣味のある人が寂しさを口にすることはほとんどないはずです。

では趣味を持てという話かというと、そうでもありません。要は意識に隙を見せなければよいのです。常に誰かに追われたりとか、あとはPVを観ながらニッキー・ミナージュの "Super Bass" を完コピしたりするのもいいですね。



参考までに、イギリスの美少女がこの "Super Bass" を完コピして世界を熱狂の渦に巻きこんだ有名な動画がこちらです。



これと同じくらいのレベルに達するころには、かなりいろんなことがどうでもよくなっているはずです。すくなくとも寂しさの鼓動が鳴りをひそめているのはまちがいありません。


A: ニッキー・ミナージュの"Super Bass"をマスターしましょう。


ちなみに僕はソフィアよりも隣で踊っているロージーのほうが好きです。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その263につづく!

2017年2月10日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その261


アンドロメダ成分さんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)


Q: 相手の言い分も自分の言い分も間違ってはいない時、自分はお互い様だと思うのですが、相手は相手の言い分を押し通そうとしてきます。自分が折れるべきなのでしょうか?


どこにでも転がっているわりに、これは考え出すとなかなか奥の深い問題です。

が、ここはひとまず「折れる必要はまったくない」とさきに結論を申しておきましょう。折れるべきではない、という意味ではありません。あくまで、その必要はないというだけです。それじゃ答えになってないよ、結局どうすべきなのとお思いでしょうが、僕が考える奥の深さとはまさしくここにあります。なんとなればこの問題は、1本の糸ではなく何本かが同時に絡まり合っているからです。

完全に等価といえる、2つの意見がここにあったとしましょう。どちらも間違っていないということは、つまりどちらにも納得できる理があるということです。どちらにも同じくらいの理があるとすれば、当然どちらを選んでもいいことになります。どちらを選んでもいいのであれば、相手に譲ったところで何ひとつ問題はないはずです。

しかし現実はこう単純にはいきません。というのも多くの場合、じぶんの意見のほうがよりベターであると信じているか、もしくは単純に相手に譲りたくないという気持ちが働くからです。そしてここには早くも色の異なる2本の糸が混在しています。言うなれば理性とエゴの2本ですね。絡まり合っていると先に書いたのは、理性に見せかけた無自覚のエゴである場合もまた、往々にしてあるからです。じぶんでじぶんをひっぱたくようなことを書いているような気もしますが、湿布でも貼りながらつづけましょう。

ちかごろは正しさということについてよく考えます。2つの意見があってどちらも間違っていないとき、それは言い換えればどちらも正しいということです。ですよね?どちらも等しく正しいのだとしたら、その選択は最終的に正しさ以外の理由によって決まるということです。はて、そうすると正しさとはいったい何だろう?どちらかというとそれは対立を前提とした武器や防具のひとつにすぎないのではないか?これが3本目の糸です。

理屈っぽいと昔からさんざん舌打ちされてきた僕が言うのもなんですが、どんな対立でもだいじなのは互いの気が済むにはどうしたらいいかであって、どちらに理があるかではありません。数多の異なる意見が混在する世界にあって一面的な正しさなどクソの役にも立たないし、それが理性を装ったエゴならなおさらです。というより、互いに妥協点を探り合ってどうにかこうにか辿り着いた地点こそ、間違っていないと断言できる唯一の答えであり、正しさと呼ぶにやぶさかでない何かだと僕はおもいます。

こうすべき、という考え方は言うまでもなく「正しさ」が前提です。しかし先にも書いたように正しさなどネット上で見かける「あなたは18歳以上ですか?YES/NO」ボタンと同じ程度の力しか持ちません。折れるべきではないと書かなかったのはそのためです。

冒頭の結論をもうすこし敷衍すると、「あなたの言い分はわかる。一方でわたしはこうおもう。ふたりがしぶしぶ認められる妥協点があるとすればどこだろう?」ということになるとおもいますが、とはいえ現実的にそんなまどろっこしいことはそうそうできません。したがってまずは絶対に譲りたくない部分をじぶんのなかではっきりさせておきましょう。その上で、いくつかのパターンを状況に応じて組み合わせるのがよいとおもいます。

1. あっさり折れる
2. とことんまでやり合う
3. ムチで打つ

つねに言い分を押し通してくる人というのは、じぶんの意見が通って当たり前だと考えているようなところがあります。したがってつねに折れるのではなく、ときに相手を立て、ときに問答無用でしなやかな一撃を喰らわし、硬軟を織り交ぜるのが肝心です。鞭は9本の革ひもを束ねたいわゆる九尾鞭(Cat o'Nine Tails)なんかがよいでしょう。

少なくとも1回ムチで打っておけば、その後はある程度の抑止力になります。「あ、これ以上はムチが飛んでくるな」と相手に思わせられるようになったらしめたものです。うまくするとある種の性的嗜好に目覚めて、より従順になってくれるかもしれません。


A: 引いたり押したりぶったりしてみることです。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その262につづく!

2017年2月1日水曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その260


すきやばしジローラモさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がなんとなくつけています)


Q: 先日某回転寿司に行った時、半熟たまご軍艦と言うものがあり頼んでみたところたまご好きな自分からするととても美味しく、他にもハンバーグ寿司などバラエティ豊富な寿司が沢山ありました。そこで質問なのですが、シャリの上に何か乗っていれば寿司として成立するのでしょうか?また、成立と考えるとシャリ寿司というシャリONシャリも成り立ちますか?ご回答お願い致します。


回転寿司もすっかりファミレスの一形態として定着しましたね。僕がちいさいころは駐車場付きの独立した店舗みたいのはまだほとんどなかったし、ネタもそれほど多くの種類はなかった気がするから、隔世の感があります。

初めてハンバーグの乗った寿司を見たのはたぶん、20年くらい前のことです。よりファミレス化が進んで、4人がけの家族シートみたいのができて、寿司といっしょにケーキが流れてくるようになったころでしょうか。こうして文章に書き出してみるといったい何を言ってるんだお前はという気がしてきますね。回転寿司とはつくづく異にしてエキセントリックなカルチャーです。

シャリ+X=寿司という公式が成り立つとすれば、もちろんシャリONシャリも寿司ということになりましょう。80年代に一世を風靡したゆうきまさみによる不朽の名作「究極超人あ〜る」にはたしか炊きたてのご飯におかゆをかけた「おかゆライス」が描かれていましたが、言ってみればそれと同じようなことです。コメ党ここに極まれりというかんじですね。

問題はシャリ+X=寿司という公式がはたして本当に成り立つかどうかです。たとえばメロンの切れ端やこんにゃく、もしくは豆腐なんかをシャリに乗せてみたとしましょう。見た目は立派に寿司です。味には賛否がありそうですが、見た目と食感がだいたい寿司ならそれはもう寿司と呼んでいいような気がします。

ではメロンやこんにゃくよりもはるかに味覚的なハードルが低そうな、ふりかけはどうだろうか?シャリにふりかけをぱらぱらと撒いて、寿司と言い張ることはできるだろうか?

味付け海苔はどうだろう?くるりと巻けば海苔巻きや軍艦巻きとして寿司の王道を彩るのだし、四角く切った海苔を1枚、フタみたいにシャリに乗せてもやっぱりそれは寿司になるだろうか?

否定はできません。しかし諸手を挙げて賛同できるかといったら、それはそれでまたちょっと微妙です。すくなくとも今日はお寿司ですよと言われて、ふりかけのまぶされた酢飯のかたまりが出てきたら僕は戸惑います。寿司は寿司かもしれないけれど、しかしそうまでして寿司と言い張る理由はなんなんだと問いたい。

したがって、「成り立たない」というのが僕の結論です。いいから魚介を食わせてくれよとおもいます。ケチャップで味をつけたシャリに卵焼きを乗せたらオムライスっぽい寿司ができるなとか、もうかれこれ2時間以上は寿司の限界について考えていますが、正直もううんざりです。だいたい寿司を食いに来てハンバーグ巻きってどういうことなんだ、ハンバーグ食いにいけばいいじゃないか。


A: 成り立ちません。


懐が広いのも良し悪しですよ、まったく。




質問はいまも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その261につづく!