2012年6月28日木曜日

ピス田助手の手記 33: わたしたちにできること







さて、語るべきことはもうさほど多くない。わたしは筆を割きすぎた。

結局これは、どこまでいってもアンジェリカ一人の問題でしかなかったのだ。仮にわたしたちがスワロフスキの奪還を目論んだところで、もとより帰される予定なのだからちっとも意味がない。かといってアンジェリカに加勢しようにも、建前上は何ひとつ起きていないのだからそもそも加勢のしようがない。これをもうちょっと突き詰めると、じぶんたちの奮闘が何から何まで全部まるごと一切合切ムダだったという、正面から受け止めるにはわりとショッキングな事実にぶち当たるのだが、その点についてはあまり触れないでおこう。ブログとしての体裁をかなぐり捨ててまで費やしてきたこの3ヶ月を「おおむね無意味でした」のひと言で片づけてしまうのは、わたしとしてもさすがに忍びない。

手記のはじめのほうでわたしは「缶切りがほしい」と言った。だがこれまで向き合ってきたのはどうも缶詰ではなく、瓶詰めだったらしい。スピーディ・ゴンザレスの登場によってようやく手にしたかにおもえた缶切りも、こうなると単なる鉄クズでしかない。さんざんな遠回りと全身全霊の空回りをこうして延々したためてきたのはつまり、気持ちのやり場がどこをどう探してもまったく見当たらないという、その腹いせのためだったことがこれでわかってもらえただろう。

わたしたちの出番は終わった。というか実際には出る幕など初めから1秒たりともなかったのだが、それでもすごすごとこのまま屋敷に戻り、あの阿片にも似た神秘の生ハムにふたたび耽溺することを選ばなかったのは、ひとつにはいつの間にかそばに来て話をきいていたみふゆが「ねえさまを迎えにいきたい」と言ったからだ。

できることは何もない。ことによると邪魔になるだけだ。ブッチが望む商いの交渉にしたって何も今このタイミングでなくてもかまわないだろうし、わたしにいたってはみふゆの引率という役目以外、もはやこれといった用向きも格別ないのだから、誰よりもお呼びでないことはわかりきっている。

だが、わたしとしてもアンジェリカが最終的にどんな判断を下すのか知りたいというきもちがやはりあった。誰だって隣り合わせで並んだ2つの部屋に、同時に入ることはできない。それを知ってもなお、アンジェリカはブルドーザー的な手腕で強引に入ろうとするんだろうか?

だからというわけでもないが、迎えにいく、というのはなかなか良いとおもった。役に立とうと立つまいと、アンジェリカとスワロフスキがそこにいるのなら、みふゆを連れていく意味はある。ブッチはついでだ。

「ふーん。ま、いいんじゃないの別に」とスピーディ・ゴンザレスは案外あっさり頷いた。「行ったところでどうにもならんてことを、承知の上で行くんだからな。要は野次馬だろ。見物だけならオレだってしたいとこなんだ。好きにすりゃいい」
「べつに許可は求めてないよ」
「次郎吉は置いていくんだろうな?」
「イゴール?いや、いっしょに行くよ、もちろん」
「おいおいおい。そりゃないぜ。オレが何のためにここに来たのか、忘れたわけじゃないだろ?コイツを足止めするためなんだぞ。お前らはもともと勘定に入ってないからどうしようと知ったこっちゃないが、次郎吉だけはダメだ。オレの立つ瀬がなくなっちまう」
「あんたの立つ瀬なんかそれこそ知ったこっちゃないよ」
「あのな、オレは感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはこれっぽっちもないんだ。その態度はいただけないね。ボコボコに殴られたのは誰だ?ことの次第を話してやったのは誰だ?オレはべつに脅かされたから話したわけじゃない。いい時間つぶしになるとおもったから話したんだ。あんまり図に乗ってほしくないね。ロープを断ってもこうして平和的に向き合ってやってるだろうが?もらうもんだけもらってとっととずらかるってんなら、そりゃ追いはぎと大差ないぜ」
「シュガーヒル・ギャングの一員がどの面下げてって感じだな、わたしからしたら」
「お前らにどう見えてるのか知らんが、オレはわりかし融通のきく立ち位置なんだ。シルヴィアの姐御に恩義はあっても、シュガーヒル・ギャングに義理はない。どっちにつくかと言われればそりゃ決まってるが、それも相対的な話さ。べつに忠誠を誓ってるわけじゃない。でなきゃこうしてぺらぺら喋るはずがないだろ?」
「単におしゃべりが大好きって感じにみえるけど」
「好きだとも。口と尻とフットワークが軽いって三点セットがオレの身上だ」
「どちらかというと迷惑な本領だな」
「その恩恵に与っといてよく言うね」
「けっきょく何もできないことがわかっただけじゃないか。聞かなくたって同じことさ」
「だいたい、何でお前が仕切ってるんだ?見たとこ、いちばん出しゃばってるお前が最大の部外者なんだぜ。ちっとはわきまえろと言いたいね、オレは」
「むむ」とわたしは言葉に詰まった。「それはわたしもうすうす感づいていたけども」
「ピス田さま」とここでイゴールが口をひらいた。「お気持ちはもう十分に頂戴いたしております」
「こんなやつの言い分を真に受ける必要はないよ、イゴール」
「いえ、もとより他にないと臍を固めておりました。わたくしは屋敷に戻ります」





<ピス田助手の手記 34: 手品師の気まぐれと意外な成り行き>につづく!

2012年6月25日月曜日

ピス田助手の手記 32: 正しい人質の使いかた







「意味がちがう?」とわたしは言った。
「チビの解放に条件があるように見えてるってことだろ、要するに?」
「話を聞けばそういう構図にしかならないね」
「そこがズレてんのさ。答えがイエスかノーかにかかわらず、アンジェリカが来た時点でチビは返される。それはもう初めっから決まってることだ。アンジェリカはだから、ただ迎えにいくようなもんだな」
「イエスとノーにかかわらず?」
「そうとも」
「アンジェリカがノーと言っても、スワロフスキは家に帰れる?」
「もちろん」
「イエスと言わせるためだと言ったじゃないか」
「言ったね、たしかに」
「意味がさっぱりわからない」わたしは眉間にしわを寄せた。「いったい何を言ってるんだ?」
「それはお前の視点がズレてるからだよ。誘拐だの何だのって物騒なことを勝手に思い描いてたのはそっちなんだぜ。オレはひとこともそんなこと言ってない。だろ?言葉に気をつけろってのはそういうわけだ。そもそも、交換条件なんかじゃないんだよ、別に」

スピーディ・ゴンザレスが何を言っているのか、わたしには理解できなかった。本当にわからなかったのだ。イエスと言わせるための計画なのに、ノーと言ってもスワロフスキが無事なのだとすれば、それはもうどう考えたって矛盾している。ただアンジェリカを苛立たせるだけで、何にもならないじゃないか?そんなボロ切れみたいな計画のどこにイエスと言わせる要素があるのだろう?

「やれやれ」とスピーディ・ゴンザレスは呆れたように肩をすくめた。「ユーモアのセンスもそうだけどな、もうちっと想像力ってものを養ったほうがいいぜ。あのアンジェリカが交換条件になんか応じるわけがないだろ。2羽のウサギを追って、3羽のウサギを持ち帰るようなやつだぞ」
「だから訊いてるんだ。何か他にべつの目的がないとすれば筋道が立たないじゃないか」
「いやァ、立つとも。これ以上ないくらいまっすぐな筋道だ。考えてもみろ、交換条件てことはつまり、断るならチビの安全は保証しないと宣言することになるんだぜ」
「そうしてるんだと思ってたよ、わたしは」
「その時点でアンジェリカの怒りを買っちまうじゃないか」
「当たり前だ」
「こっちとしてもチビに手をかけるのは本意じゃない。金とちがって、愛情はそれをすると二度と手に入らなくなるからな。相手が格下ならともかく、アンジェリカ相手にそんな交渉は事態を悪化させるだけだ。メリットどころか意味すらないね。だろ?」
「だからそう言ってるじゃないか」
「じゃあとっとと視点を切り替えるんだな。よく考えろ、アンジェリカの怒りは買いたくない。だから交換条件にはしない。チビは初めから安全が保証されている。だが……」
「何だ?」
「あのチビをアンジェリカの目の届かないところでそっと招待した、という事実がちょっとしたメッセージになる」
「メッセージ?」
「おいおい、手にかけようと思えばいつでもできるってことだよ」
わたしは頭に血が上るのを感じた。「何だと?」
「お前の察しがわるいせいで、こっちはジョークのおもしろさを解説するようなバカバカしさでいっぱいだってのに、めんどくさいやつだな!」
「聞き捨てならないことを言うからだ」
「ちゃんと理解しろよ。手にかけるとは言ってない。いいか?そうは言ってないんだ。それじゃ交換条件といっしょだろ。そう受け取れるってだけのことだ。そもそもそんなこと望んじゃいないってさっき言ったろ?アンジェリカだってそのへんのことはよくわかってるだろうさ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「一度きりの交換条件とちがってこの場合は『いつ心変わりするかわからない』って不確定要素がつねにつきまとうんだ。ノーと断ってもチビがすんなり帰される以上、アンジェリカとしてはそれ以上どうにもできない。一方、帰ったら帰ったで一件落着かといえば、むしろ逆だ。わかるか?このやりとりの肝は、チビを安全に帰すことそれ自体が不安の種になるってところにあるんだよ」
「それはつまり……」わたしは絶句しながらゆっくりと言葉をしぼりだした。「いつかスワロフスキがイヤな思いをするかもしれない可能性だけをいつまでも残しておくってことか?」
「断定するなよ。そう解釈できる状態でフリーズドライにしとくのさ」
「もしそのへんのことをアンジェリカが理解してるとしたら、すでに交換条件と同じかそれ以上に怒りを買ってるんじゃないのか?」
「理解してんじゃないかな。でないとそれこそ意味がない。ただ交換条件とちがってこれは、ハッキリとした意志を表明したわけじゃない。だろ?『言ってはいないが、そう解釈することもできる』というくらいのことでしかないんだ。そんなふわふわしたものに対してあからさまに腹を立てるほど、アンジェリカは愚かじゃないとおもうね」
「何か起きる前にシュガーヒル・ギャングの殲滅を決意するかもしれない、とは考えないのか?」
「あのな、さっきも言ったがチビは今、丁重にもてなされてるんだぜ。チビからしたら悪い印象なんか持ちっこないんだ。不安だってだけで殲滅するなら、それをどう説明するんだ?」
「スワロフスキには黙っていればいい」
「秘密ってわけだ」とスピーディ・ゴンザレスは愉快そうに笑った。「あのアンジェリカがね!ま、それができるんならそれもいいだろうさ」


わたしは呆然とした。イエスとうなずく要素どころか、イエスとしか言えない謀(はかりごと)がそこにはあった。





<ピス田助手の手記 33: わたしたちにできること>につづく!

2012年6月22日金曜日

ピス田助手の手記 31: アンジェリカの結婚







これまでさんざん驚かされつづけてきたわたしにとって、それはちっとも驚くに値しない話だった。むしろようやくまともな話がでてきた、と肩の荷が下りたようなきもちになったくらいだ。アンジェリカが結婚だって?結構なことじゃないか!こんがらがった話の帰結がこんなにシンプルなことなら、スピーディ・ゴンザレスの言うとおり屋敷でハムをつまみながらアンジェリカの帰りを待っていたって全然問題なかったとさえおもえてくる。どうやらわたしたちは向き合うべき事実の大きさとくらべて、すこしばかり大立ち回りを演じすぎたらしい。話の流れからいつの間にか何となくアンジェリカを救い出すような使命感に火がつき始めていたが、その火も慌ててパタパタと消さざるを得なくなった。手に汗にぎるあの決死のカーチェイスはいったい何だったのか?それから半ばプロファイリングを気取ったわたしの必死な推理は?

だがもちろんよくよく考えればスワロフスキの身柄がシュガーヒル・ギャングの手にある以上、話はそう単純ではなかった。イゴールは表情を変えずに黙って話をきいていた。

「じつを言うとこれまでもこんなやりとりは何度かあった」とスピーディ・ゴンザレスは2本のタバコをくわえた口の右と左からプーと煙を吐いた。「だがまァ、それじゃあんまり捗がいかないってんで勝負に出たんだろうな、今回は」
「それで誘拐?」とわたしは言った。「人質の解放と引き換えとはまた、ユニークな求婚だな」
「なんだってそういちいち意地がわるいんだ?オレにはむしろ、話のついた暁にあのチビが親しみをこめてお辞儀をする絵が目に浮かぶね。こっちとしても『どういたしまして』で万事まるくおさまって、めでたしめでたしだ。だろ?」
「甘鯛のポワレ教授が素直にそう受け取ればね」
「教授だってチビの笑顔をみれば矛を収めるさ」
「要はシュガーヒル・ギャングのぼんぼんがアンジェリカに一方的に懸想してるってことか」
「そういうこと。オレとしちゃべつにバカ息子に義理はないが、あれでもいちおう次代のボスだからな。シルヴィアの姐御によろしくと言われりゃ無碍にもできない」

事情はすっかりわかった。わかってしまえば、どうということもない。スワロフスキのことは心配だが、その安否がアンジェリカの肩にかかっているのだとすれば、すでに解決は保証されているようなものだ。まずまちがいなく安全に帰されるだろう。何より愛すべきスワロフスキにとってわずかでも不利益になるような選択を、アンジェリカは絶対にしない。

ただ、だからといってアンジェリカが取引に応じるかというと、それもまったく想像できない。二兎を追って二兎を得る、三兎を追うなら三兎を得るが信条と言っても良い彼女をおもえば、相手の要求(求婚)をのまずに、かつスワロフスキを奪還するという結論がいちばんしっくりくるようにおもえる。彼女にとって選択とは「取捨」ではなくつねに「取取」であり、理想とは現実の同義語でしかないのだ。

そしてもちろん、これは成功するだろう。それくらいのことはアンジェリカにとって何でもない。彼女はいつだって勝者の側に立つことを運命づけられているような人物だ。場合によってはシュガーヒル・ギャングの連中が全面的に調伏されて幕を閉じる可能性すらある。問題はどこにも見当たらない。わたしたちにできることといったらもはや、すべてが終わった後にせいぜいおつかれさまと労ってやるくらいしかなさそうにおもえた。

しかし…だからこそわたしはどこか棘のようなちいさな引っかかりをおぼえた。どうも釈然としない。いくら何でもそれでは話があまりに簡単すぎる。シンプルというよりはイージーだし、問題がないというよりはむしろなさすぎるのだ。部外者たるわたしでさえ容易に結末の想像がつくような筋書きなのに、よりにもよってアンジェリカ相手に求愛を試みるような輩がそのあたりのことを何も考えていないなんてことがあり得るんだろうか?

勝負に出たんだろう、とスピーディ・ゴンザレスは言った。しかし初めから挑んだ相手の完全勝利しか用意されていないような負け戦の、いったいどこが勝負だと言うのか?

「よくわからないな」とわたしは真意を尋ねた。「本当の目的は何なんだ?」
「本当の目的?」スピーディ・ゴンザレスは眉間にしわを寄せた。「何のことだ?」
「そんな場当たり的な計画がうまくいくわけないってことだよ」
「そうかね?」
「相手はアンジェリカなんだぞ」
「知ってるよ。そう言ったのはオレだ」
「スワロフスキの解放と引き換えにアンジェリカがプロポーズを受けるだなんて、まさか本気で思ってるわけじゃないだろう?」
「ん?……ああ、引き換えって、そうか。交換条件だと思ってるんだな」
「別の目的があるんじゃないのか?」
「いやいや、目的は同じだよ。しかしまァ、おめでたいやつだ」
「何だって?」
「目的は最初に言ったとおり、アンジェリカにイエスと頷かせることだ。シンプルだって言ったろ?そこに嘘はない。ただあのチビの持っている意味が、ちょっとばかり違うのさ」





<ピス田助手の手記 32: 正しい人質の使いかた>につづく!

2012年6月19日火曜日

ピス田助手の手記 30: スワロフスキの行方







「むむ」とスピーディ・ゴンザレスは初めて言い淀んだ。「そこを突かれるとオレも弱い。しかしまァ、楽しくやってんじゃないかな、今ごろ」
「知ってるんだな?」
「知ってるというかまァ……ことの次第はね」

どうやら話が核心に近づいてきたらしい。わたしは心の中で大きく伸びをしながら、ここでようやく腹をドシンと据えることができた。これまで控えめにみても長すぎる回り道をさせられてきたが、正念場があるとすればまちがいなくここだ。これ以上はぐらかされるわけにはいかなかった。

「ブッチ」とわたしは相変わらず膝を抱えてうなだれる肉屋を呼んだ。「ショックを受けてるとこわるいけど、たのみがあるんだ」
ブッチは顔を上げた。「なんですね?」
「コイツをもう1回ふんじばれ」
「待て待て待て!あちッ」とスピーディ・ゴンザレスは足に落ちたタバコの灰をパタパタはたきながら言った。「そう慌てなさんなよ」
「慌ててるのはそっちじゃないか」
「くそ、火傷した。あのチビが無事かってことなら、めちゃめちゃ無事だよ。心配ない」
「どうして言い切れる?」
「でないと意味がないからさ」
「シュガーヒルにいるってこと?」
「たぶん【Sweet Stuff】だ。危害どころか、ケーキ三昧だとおもうね。オレもこの件の中心にいるわけじゃないんだ。シルヴィアの姐御に、もし次郎吉が出張ってくるようなら足止めしといておくれ、と頼まれただけだからな。親心ってやつさ」
「シルヴィア?」
「シュガーヒル・ギャングの元締めです」とイゴールが言った。
「その元締めがどうしてスワロフスキを連れ去るんだ?」
「連れ去るというか、ほとんど接待みたいなもんだよ」
「どっちでもいい。それがアンジェリカとどう関係してくるんだ」
「姐御は気を揉んでるだけで、率先して動いてるわけじゃない。姐御にはバカ息子がひとりいるのさ」
「それで?」
「それで……つまり、オレが次郎吉を足止めする理由がここにあるんだよ。アンジェリカは何か言ってたか?」
「いや」とわたしは言った。「何も言わずに出て行ったから、首をかしげてるんだ」
「だろ?話せば黙っちゃいないとわかってたからさ。お前は主人の帰りを愚直に待ってるべきだったんだ、次郎吉」
「屋敷を出たのはイゴールの責任じゃないよ。どちらかといえばわたしの責任で、突き詰めていくとスナークがわるい」
「スナークか!」とスピーディ・ゴンザレスは忌々しげに言った。「アイツが余計なことをしなけりゃオレも肉屋を張るなんて仕事はしなくて済んだんだ。昔のよしみでアンジェリカの留守を教えてやったのに、恩を仇で返すような真似をするから困る」
「スワロフスキを連れ去ったのは誰なんだ?」
「さっきも言ったろ。バカ息子さ。というか実際にはまァ、三下だな」
「何のために?」
「そうでもしないと出てこないだろ、アンジェリカは」
「人質にしたんだな」
「その言い方が適切かどうかは議論の余地があるとおもうね。誰にも気づかれないようにそっとチビを招待して、下にも置かないもてなしぶりをアンジェリカに伝えただけとも言えるだろ?ことを大袈裟にしようとすんなよ。言葉遣いひとつで印象がくるっと反転することもあるんだぜ」
「用があるならじぶんで出向きゃいいじゃないか」
「奥手なんだろ」
「むしろ不遜に見えるよ」
「そうかもな。ただまァ、出向いたってどうにもならないことを知ってるのさ」
「だからって呼びつければそれで話がつくとはおもえないな」
「そのとおり。そこであのチビのお出ましってわけだ」
「どういう意味だ?」
「興味津々だな、おい」シュガーヒルの用心棒はこらえきれない様子で笑い出した。「こっから先は有料にしてもよさそうだ」
「いいとも。ムール貝博士につけといてくれるならね」
「ムール貝博士?仲が良いんだな」
「べつに良くはないとおもうけど」
「オレはわりと良いほうだぜ」
「ただ、わたしは博士の助手なんだ」
「おっと。そりゃ正気じゃないな」
「残念ながらね」
「お前の顔を博士のとこで見かけた記憶はないぜ」
「わたしもあんたがお得意様だってことをさっき電話で初めて知ったんだ」
「なるほど。そりゃたしかに分がわるい。博士に金を貸してもロードローラーで念入りに踏み倒されるのがオチだろうからな」
「わたしもなるべくならあんまり笠に着たくはないね」
「冗談だよ。気にするな。チビをもてなしてるのは呼びつけるためじゃない。イエスと言わせるためなんだ」
「誰に?」
「アンジェリカに決まってるだろ。他に誰がいる?」
「何を?」
「そろそろ察しても良さそうなもんなのに、お前もたいがい鈍いな。話してもいいけど、次郎吉の神経に障るのはまちがいないぜ。アンジェリカが黙って出て行ったってんならそりゃ、心配ないってメッセージの裏返しでもあるんだ。だろ?オレがこうしてここにいるのもそうだ。オレの忠告を聞き入れる余地はまだ全然あるとおもうね」
「忠告というのはつまり……」
「ほっとけってこと。付け加えて良ければ……」
「それはさっき聞いたよ」
「そう?聞いてなさそうにみえたけどな」
「どうする、イゴール?」
「構いません」とイゴールは即答した。「お嬢さまの意に沿うことがわたくしの仕事なら、同じようにお嬢さまにたかるハエを追い払うのもわたくしの仕事です」
「ハエか」とスピーディ・ゴンザレスは笑った。「言い得て妙だな。だがその忠誠心が却ってことをややこしくする場合もあるんだぜ。わかってるのか?」
「構わないって言ってるだろ」とわたしは言った。「そんなにややこしい話なのか?」
「いやいや、話はいたってシンプルだ。実際のとこ、もったいぶるような話でもない。アンジェリカは求婚されてるのさ」





<ピス田助手の手記 31: アンジェリカの結婚>につづく!

2012年6月16日土曜日

ピス田助手の手記 29: シュガーヒルの用心棒 その2







一瞬わたしはドキリとした。聞き違えたかともおもったが、考えてみればわたしはスピーディ・ゴンザレスの顔を知らないのだ。勝手にそう思いこんでいただけで、目の前にいる相手は全然関係のない別の誰かなのかもしれない。ひょっとすると互いに何かとんでもないまちがいをしでかしているのではないかという思いがよぎったのもムリはなかった。

「えーと」とわたしは戸惑いながら確認した。「スピーディ・ゴンザレス?」
シュガーヒルの用心棒はあっさり認めた。「そうだけど?」
「ジロキチというのは?」
「というのはと言われてもね」とスピーディ・ゴンザレスは訝しむように眉間にしわを寄せた。「何なんだお前ら?どういうつながりなんだ?」
「彼の名前はイゴールだよ。アンジェリカの執事で、次郎吉じゃない」
「イゴールね。どっちでもいいけど、オレにはあまりピンとこない名前だな。なぜ黙ってる?」
「べつに黙ってないよ」
「お前じゃない。アイツに言ってるんだ」
わたしは振り返って問題の人物に目をやった。「イゴール?」
「何でございましょう?」
「友だちなわけ?」
「いえ」とイゴールはきっぱり否定した。「たしかに古い顔馴染みでないとは言えないかもしれませんが」
「知り合いではあるわけだ」とわたしはまとめた。「そのへんすごく気になるけど、スワロフスキを探さなくちゃいけないんだ。掘り下げるのはやめておこう。アンジェリカはどこで何してる?」
「さァ。オレに聞いてるわけ?」
「さァってことはないとおもうよ、さすがに」
「知るわけないよ。さっきも言ったろ?オレはアイツに会いにきたんだ」
「今さら温め直せる旧交があったようにはみえないけど」
「こうギャラリーが多くちゃ照れくさくもなるさ」
「しらを切ってもしかたがないぜ」
「いやいやいや」とスピーディ・ゴンザレスは驚いたように言った。「そんなつもりはまったくないよ。ぜんぶ正直に話してる。オレはアイツと腹を割って話をしにきた。それだけさ」
「話というのは?」
「もうちょっと具体的に言うと、まァちょっとは落ち着けよって感じかな」
「ぜんぜん具体的じゃないぞ」
「あのな」とスピーディ・ゴンザレスはもくもく煙を吐き出しながら苛立たしげに言った。「オレからしちゃ、ここにぞろぞろと4人もいることのほうがよっぽど謎なんだ。そろいもそろって、アンジェリカに何の用がある?」
「アンジェリカを知ってる?」
「知ってるよ、もちろん」
「さっき知らないって言ったじゃないか」
「アンジェリカを知らないとは言ってない。どこで何をしてるかは知らないと言ったんだ。何しろオレは今ここで顔をボコボコに腫らしながらのんびりタバコをふかしてるんだからな。知りようがないだろ」
「わたしたちがこんな目に遭わなくちゃならない理由を知りたいんだよ」
「おいよく見ろ。こんな目って言えるような目に遭ってるのはむしろオレのほうだろ」
「自業自得だね」
「アンジェリカが心配だってんなら、そいつは保証できるよ。その心配はぜんぜん無用だ」
「いや、心配はしてない」
「じゃなぜ後を追う?家で待ってりゃいいじゃないか?」
「行きがかりってものがあるんだよ。何度帰ろうとおもったかわからないけど、途中でハードな鬼ごっこが始まったんだ。帰りたくても追われてたんじゃおちおちお茶も飲んでられない」
「帰るってんなら、止めないよ。オレも追わない。こっちとしても歓迎できる決着だね」
「あとはアンジェリカを家で待てばいい?」
「そういうこと」
「じゃ帰ってくるんだな?」
「知るかよ。子どもじゃないんだから、そんなことはじぶんで決めるだろうさ。これはオレがここにいることとも関係がないわけじゃないんだ。つまり……」
「つまり?」
「ほっとけよってこと。付け加えて良ければ、オレとここでつもる話に花を咲かせようぜってとこだ」
「つもる話なんか別にないよ」
「お前じゃないって言ってるだろ。何度も言わせるな」
「スワロフスキさまについては?」とここで初めてイゴールが口をひらいた。もちろんスピーディ・ゴンザレスに対してだ。ふだんからは想像できないような冷たい物言いに、わたしも少なからず驚きながらイゴールをみた。
「よう、やっと口をきいてくれたな!その声、なつかしすぎるぜ」
「どうかと訊いてるんだ」
「そんなよそよそしい顔すんなよ」
「ゴンザレス」
「お前にそう呼ばれるとギョッとするな。さっきからちょいちょい出てくるそのスワ何とかってのは誰なんだ?」
「甘鯛のポワレ教授のひとり娘だよ」と代わりにわたしが答えた。「ちっちゃな女の子だ。探してほしいとたのまれてる」
「あ」スピーディ・ゴンザレスはしまったというような顔をした。「あのチビか」





<ピス田助手の手記 30: スワロフスキの行方>につづく!

2012年6月13日水曜日

ピス田助手の手記 28: シュガーヒルの用心棒







わたしたちの対決は思いもよらない形でこうして決着をみた。失ったものの大きさについては計り知れない(でなければ計りづらい)ものがあるとおもうが、ともあれこれ以上なく重要なカードを手にしたことはまちがいない。

スピーディ・ゴンザレスは座席下の工具箱にあったロープでぐるぐる縛られて、今や力なく地面に胡座をかいていた。顔が3倍くらいに腫れ上がっているのは、ハンス号を降りたブッチにこっぴどく殴られたせいだ。初めて目にしたときはセーラー服を着たアヒルのようだとおもったが、こうして改めて向き合うとやはりセーラー服を着たアヒルに見える。正気を取り戻した立役者ブッチは膝を抱えてうずくまり、涙をはらはらこぼしていた。

「まいるね」とスピーディ・ゴンザレスはコブだらけの顔を息で冷やそうとフーフー吹きかけながら言った。「さすがにこうなるとは思ってなかった。死ぬぜ、ふつう」
「気の毒にね」とわたしは言った。「同情するよ。口先だけで良ければだけど」
「タバコをくれ」
「ないよ」
「ないはずないさ。オレのポケットにあるんだから。まァゆっくり話そうぜ。オレとしても用は済んだんだ」
「失敗を成功みたいに言うんだな」
「いや、顔がボコボコになったこと以外は、おおむね予定通りだよ」
「つかまって縛られることが?」
「お前らとここにいることがさ。オレは別に果たし状を突きつけたかったわけじゃないんだ」
「ひと言もなくいきなりドンパチ始めたくせに何を言うんだ」
「挨拶だよ。クラッカーみたいなもんだ。みんなやるだろ?」
「やらないよ!どこの国の風習だ」
「そう?そりゃわるいことしたな」とスピーディ・ゴンザレスは肩をすくめた。「クラッカーのひとつも鳴らないなんて、そんなさみしい人生を送ってるとはおもわなかったから」
「大きなお世話だ」
「命を狙われてるとでもおもったわけ?」
「おもったよ!当たり前じゃないか!」
「おいおい何だよ、呆れたな。ちょっとはユーモアのセンスを磨いたほうがいいぜ」
「軍事訓練の必要なユーモアなんてご免だよ」
「まどろっこしいとはおもわなかったのか?」
「何が?」
「命を狙うってのはそもそも、わりと積極的な行為だぜ。だろ?」
「積極的に仕掛けてきたじゃないか!」
「あんなのはただのコールアンドレスポンスだ。そうじゃなくて、本気で仕留めるつもりなら肉屋で待ち合わせなんかしないってことさ」
「待ち合わせなんてしたおぼえはないけど」
「片思いか。まあそれでもいいさ。考えてもみろよ、来るかどうかわからない相手が本当に来た時のきもちの昂りを!」
「ロマンチックにまとめられても困る」
「アイツならわかってるとおもうけどな」
「アイツ?」
「タバコをくれって言ったろ。手も足も出ないんだ。取ってくれてもいいじゃないか」

どうも相手のペースに持ち込まれているようにおもわれて気に入らなかったが、かといってここで張り合ってもしかたがない。わたしはスピーディ・ゴンザレスのポケットからタバコの箱を取り出してやった。

「ありがとう」と言いながらシュガーヒルの用心棒はさらに注文をつけた。「いや、2本だ。それでいい」
「2本いっぺんに吸うのか?」
「2回吸う手間が省けるだろ。火は?」
「ああ」とわたしは面倒になってため息をついた。「火ね。もうちょっと暑くて乾燥するようになったら自然発火することもあるんじゃないかな」
「おい、殺生なこと言うなよ。つれないぜ」
「待つのは得意なんだろ」
スピーディ・ゴンザレスは目を細めた。「ふむ。じゃあしかたがないな。先に言っとくけど、イヤな顔するなよ」
「イヤな顔?」

認めたくはないがそれはじつに、そしてあまりにも鮮やかな手際だった。すこし離れたところでうなだれるブッチを慰めていたみふゆまでがそれを見て「わ!」と驚いたくらいだ。スピーディ・ゴンザレスの体をキツく締め上げていたロープは、ぱらりとほどけて地面に落ちた。いくらかでももがく様子をみせるならともかく、首にかけていたチョーカーを外すような軽い動作であっさり縄を抜けるなんて、想定外にもほどがある。呆気にとられたわたしたちは、我に返って身構えた。

「待て待て!イヤな顔するなって言ったろ。頼みを断ったのはそっちじゃないか。これくらいなら何でもないんだ。挨拶は済んだし、今すぐ帰ろうってつもりもない。ゆっくり話そうぜって言ったのは誰だ?オレだろ?どうも調子が狂うな。聞いてなかったのか?」
「調子が狂うのはこっちだよ」とわたしはかろうじて言った。「手品もつかうんだな」
「まあね。ところでお前は誰なんだ?」
「何だって?」
「まさか4人もいるとは思ってなかった」スピーディ・ゴンザレスは自由になった手で2本のタバコに火をつけるともくもく煙を吐き出した。「オレはそっちでそっぽを向いてる奴に会いにきたんだ。なァ次郎吉」





<ピス田助手の手記 29: シュガーヒルの用心棒 その2>につづく!

2012年6月11日月曜日

ピス田助手の手記 27: 淡い水色の予期せぬ決着







ここからの数分間は、あまり大したことが起きていない。相変わらずどういう仕組みでフルスロットルの自動車を追い抜くようなスピードが出るのかちっともわからない例の頑丈なピープルにまたがりながら、追いかけてきたスピーディ・ゴンザレスがバカのひとつ覚えみたいにライフルグレネード、でなければ大体そんなようなものをこちらに向けてぶっ放し、ぶっ放された薬筒をみふゆがまっぷたつにするという、投手と打者にも似たシンプルなやりとりを3回ほどくり返したのち、ライフルグレネードの使用をあきらめ、お互い車体が分解するような猛スピードで駆け抜けているにもかかわらずその状態から接近戦に持ちこんで、スピーディ・ゴンザレスはサバイバルナイフ、みふゆは脇差しでちゃんちゃんばらばらと車上で火花を散らし、アイスノンを抱きながら首をすくめてちぢこまるブッチの隣で激しいつばぜり合いをつづけるなか、わたしはといえば助手席で、M61バルカンが格納してあるマンホールへの道順をイゴールに指示しつつ、ときおりその方角をていねいに指でさしたりしながら、全体としてはおおむね順調に目的地への距離をちぢめていたのだが、先にやってみせたのと同じようにイゴールの急ブレーキによる時間差でふたたびピープルに体当たりを食らわせることをしなかったのは、前とちがって一瞬たりとも気の抜けないやりとりの中にみふゆが身を置いていたからであり、そうなるとわたしたちとしても道をまちがえないようにする以外できそうなことが他になく、したがってすぐ後ろでキンキンとはねかえる金属音を耳にしながらもうっかり談笑に興じるくらい泰然自若というか手持ち無沙汰にしていて、ありがたいことに気づけばゴールはもう目前だった。

そんなわけでいざ辿り着いたらその先どうするという肝心な部分については、あまり考えていなかった。人生には前向きと後ろ向きのほかに、どうせとりかえしがつかなくなるならいっそギリギリまで人生を楽しんでおいたほうがやがてわき上がる後悔も場合によってはちょっぴりで済む気がする、という横向きの選択肢もあるのだ。だいたい、考えたところでなるようにしかならないことをこねくり回してどうなるだろう?

意外なことに、わたしたちの対決を決着へとみちびくきっかけをつくったのは、アイスノンだった。そして語るには気の引けるちょっとした悲劇がここにはある。時間の経過を極力スローにして、ひとつひとつの瞬間を順に見ていこう。

わたしたちの視界にマンホールが入ってきたとき、まずイゴールがブレーキをかける旨を大声で告げた。これはもちろんみふゆに注意を促すための一声だったが、それを聞くとスピーディ・ゴンザレスはすかさず伸ばした足のつま先でトンとみふゆの胸を突いてブッチのほうへと押しやった。おそらく賢いハンス号の車体に足をかけて乗り移り、ブレーキと同時に前方へと飛び出してマンホールを確保するつもりだったのだろう。だがここで予期せぬ事態が起きた。驚いたブッチは「わァ!」と声を上げた。実際、このとき一番大騒ぎをしてもよい権利を誰かが持っていたとしたら、ブッチをおいて他にはいない。何しろアイスノンが卵を産んだのだ

淡い水色をしてどこか透明感のある、アクアマリンの原石にも似たちいさな卵はじつに美しかった。わたしもあんなに美しい卵はかつて目にしたことがない。だがその感動もほんのわずかな間だけだった。未来ある明るい世界に初めての一歩を踏み出した卵は、抱えていたアイスノンの向きがわるかったことも手伝って、あろうことかスピーディ・ゴンザレスへとくるくると弧を描きながら向かっていった。

ブッチの衝撃は察するに余りある。スピーディ・ゴンザレスにとってはほとんど無意識だったにちがいない。奴はじぶんに向かって飛んできた丸いものを軽く払いのけるようにして、あっさり砕いた。数多の危険をくぐり抜けてきた身体の、自動的にして精確な反応だ。

忘れようとおもっても、この瞬間だけは忘れることができない。それまで事の成り行きにうろたえるばかりだった温厚で気のいい肉屋ブッチは、長年追い求めてきた夢のひとつが文字通り粉々になったことを悟ると、暗く冷たい深海の水圧でぺちゃんこになったかのような絶望の色を目に浮かべた。ひょっとすると気のせいだったかもしれないが、すくなくともわたしにはそう見えた。

というのも同時にブッチは鬼のような形相で「何をしやがる!」と空気をびりびり震わすような野太い咆哮を上げ、熊のように太く力強い二の腕でスピーディ・ゴンザレスの首根っこをがしりとつかむと、後方の地面にパン生地よろしくバシンと思いきり叩きつけたからだ。あっという間だった。

勝負はついた。マンホールは開けられもしなかった。





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2012年6月8日金曜日

ピス田助手の手記 26: 予定変更







アンジェリカなら大丈夫、というようなことをわたしたちは何度も言ってきた。コンキスタドーレス夫人も太鼓判を押していたし、それに対する異論も出なかった。この点に関しては疑いないと誰もが確信しながらそれでもなおくり返していたのは、だとすると何なんだ、という落ち着かない思いをいつまでも拭えずにいたからだ。だが2度目か3度目に同じことをくりかえしたとき、わたしはそれまでずっと睨んできた1枚のカードをふとめくってみたような気持ちになった。

めくったカードの裏に何か書いてあったとすれば、こういうことだ。「アンジェリカが必ずしもアンジェリカ自身のために行動しているとは限らない」。

渦中にまぎれてかかってきたムール貝博士の電話がなければ、この閃きは得られなかっただろう。スワロフスキの名前をきいたときわたしは、そういえばアンジェリカとスワロフスキは仲が良かったな、ということを何となく思い出していた。博士だって開口一番、アンジェリカはどこだと訊いてきたじゃないか?神秘の生ハムに心奪われていたこともあってこの時点ではあまり気に留めていなかったが、思い返せばここですでにべつの視点と可能性が提示されていたのだ。

だが、ひとまず話に戻ろう。ムール貝博士からの電話がぷつりと切れたところからだ。賢いハンス号はガタガタと震えながら猛スピードで目当てのマンホールに向かっていた。

フーム、とわたしは電話を閉じながら唸った。
「どうかなさいましたか」とイゴールは賢いハンス号の手綱をゆるめずに尋ねた。
「スワロフスキが迷子になったらしい」
するとみふゆが後部座席から身を乗り出してきた。「スワロフスキが?」
「そうか。君も仲良しなんだな」
「博士がそう仰ったのですか」
「探せと言われた」とわたしは博士の言ったことを思い出しながら応えた。「いろんなことがいっぺんに押し寄せるから、頭が混乱してきたよ。甘鯛のポワレ教授がパニクってるらしい。わたしたちが向き合ってるのはどれも同じひとつの問題のような気がするんだけど、如何せん絡まりすぎててよくわからない。率直に言ってほどくのもめんどくさい」
「と仰いますと」とイゴールは言った。「スワロフスキさまもこの一件に関係しているとお考えなのですか」
「最初に博士からかかってきた電話のあと、一瞬だけそんな気がしたんだ。そのときはアンジェリカとスワロフスキの仲をふっと思い浮かべただけだったけど、探せとハッキリ言われた今はその思いがもっと強くなってる。だってこのタイミングだぜ」
「関連性を疑う理由はたしかにございますね」
「そのソワソワスルというのはどちらさんです?」とブッチが口をはさんだ。
「スワロフスキは……1文字も合ってないな。【詩人の刻印】の3曲目に出てくるちっちゃい女の子だよ。初出は4年前の<ここ>だ。アンジェリカと仲良しで、みふゆとも……」
「仲良しです!」とみふゆが大きく頷いた。
「というわけ」
「そんな舞台裏をべりべり剥がすようなお話をしてしまってよろしいのですか」
「初めて訪れた人が1秒で踵を返すようなブログになってしまってるんだ。今さらとりつくろっても仕方がないよ」
「ふむ!そりゃご心配もごもっともですな。してポチョムキンというのは?」
「ポワレ教授は……ポしか合ってないじゃないか。教授はスワロフスキの父親だよ」
イゴールが現実(という名のフィクション)にわたしたちを引き戻すようにして訊いた。「ではいかがいたしましょう?」
「そこで混乱してるんだ」とわたしは頭を掻いた。「アンジェリカを追ってるとこだし、スピーディ・ゴンザレスに追われてるとこだし、どうしたらいいんだ一体?」
「お嬢さまの追跡についてでしたら」とイゴールは言った。「優先順位としては今やそれほど火急ではございません」
「なんで?」
「ホワイトデー・モードはすでに発動済みとピス田さまが先ほど仰いました」
「そうだった!」
「スワロフスキさまのことはわたくしも多少は存じておりますし、心が痛みます」
「じゃひとまずアンジェリカは追わなくていいってことだ」
「お嬢さまがわたくしにどちらの行動をお望みになるかということでしたら」イゴールはきっぱり言った。「考えるまでもございません」
「予定変更だ!スワロフスキを探そう」とわたしは宣言した。「しかしどこへ行けばいいんだ?
「旦那!」背後から忍びよる爆音に振り返ったブッチが声を上げた。「追いつかれそうですよ!」





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2012年6月5日火曜日

ピス田助手の手記 25: 影のようについて回る1本のカギの話







スピーディ・ゴンザレスの登場によって、この一件にどうやらシュガーヒル・ギャングが関係しているらしいということが何となく見えてきたような気もするが、一方でわたしには腑に落ちないことがひとつあった。

たしかにシュガーヒル・ギャングとアンジェリカは、どちらも決して品行方正とは言えないという点でよく似ている。場合によっては手がつけられないという点でも同じだ。しかし前者が基本、逃げることに長けた後ろ暗い連中のあつまりだとするならば、後者は何をするにもおおっぴらであるばかりか、そもそも逃げるという概念さえ持っていない。仮に同じようなことをしでかすにしても、アンジェリカは罪を承知で堂々とやるか、でなければ何も考えずに堂々とやるだろう。アウトプットが同じでも根幹となる部分が正反対なのだ。

したがって、アンジェリカがシュガーヒルの連中を厭うことはあっても、積極的に接点を持とうとするとは、とてもおもえなかった。すくなくとも彼女がわたしのおもうような人物でありつづけるかぎり、それは保証できる。用があるとすればまずまちがいなくシュガーヒルの側だ。スピーディ・ゴンザレスがわたしたちの進路を妨害しようとしたことでも、それは伺い知れる。邪魔をされたくないということは、つまりそういうことだろう。

わからないのは、だとすればなぜアンジェリカがわざわざ出向かなくてはいけないのか、ということだ。彼女なら相手が誰であろうとへつらうようなことは絶対にしないし、呼ばれてのこのこ出向くほどお人よしでもない。たとえ一国の王だろうが必要とあれば平気で呼びつける。アンジェリカのアンジェリカたるゆえんはまさしくそういうところにあった。

ではたとえば何か、弱みをにぎられているという可能性はどうだろう?

残念ながら、アンジェリカに弱みはない。これもまた、彼女が彼女たるゆえんのひとつだ。もし弱みを秘密と置き換えてよければ、一度こんな話をしたことがある。

「たとえば隠しておきたい宝物があるとするでしょ」と彼女は言った。「じゃあ、それを宝箱に入れます。カギをしめるわね、もちろん?」
「まあ、そうだね。手を触れるべからずなんだから」
「そうすると手元にはカギがのこるわけ」
「そりゃそうだ」
「ピス田ならこのカギどうする?そのへんに置いとく?」
「置いとかないよ!失くしたらどうする」
「じゃこれもどこかにしまっておかなくちゃいけない。よね?」
「ふむ」
「貸金庫とかどう?」
「どうって、別にいいとおもうよ。それで?」
「じゃ貸金庫に預けました。そこでまたカギが出てくるわけ」
「貸金庫のカギってこと?」
「そう。また手元にカギがのこるの。ピス田ならこのカギどうする?」
「むむ」
「わたしならゴメンだわ。1本のカギがいつまでも影みたいについて回る人生なんて」

この話は秘密というものに対するアンジェリカの考え方をよく表しているとわたしはおもう。もし秘密を身につけるようなことになったら、そのためにこそ手放してしまうだろう。彼女に秘密は似合わない。わたしたちにとってアンジェリカがひどくミステリアスな存在として映るのは、伺い知れない秘密のためではなく、何もかもオープンに開け放してあるにもかかわらず、そのあまりの広さに呆然と立ち尽くすしかないからなのだ。アンジェリカは宇宙に似ている。

もう一度言おう。アンジェリカに弱みはない。「あるとおもうなら握ってみたら?それがぐちゃっとしてて変な色しててイヤなにおいのする何かでなければいいけど」と軽やかにあしらう彼女が目に浮かぶ。あるとおもって握れば実際それは、すべからくぐちゃっとしてて変な色をしていてイヤなにおいのする何かだろうとわたしもおもう。彼女はそんなもの意に介さない。

だとすればアンジェリカはいったい何のために行動しているのか?





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2012年6月2日土曜日

ピス田助手の手記 24: 博士の出したもうひとつの条件







極楽鳥の町にはムール貝博士が科学的好奇心と気まぐれで手をつけたのち、そのままほったらかしにされている場所が何箇所かある。手をつけたというのはつまり、マンホールにガトリング砲を格納したり、防火水槽を武器庫にしたり、横断歩道の白線部分にべたべたしたものをまんべんなく塗りつけておいたりしたという意味だ。あることは知っていてもそれが正確にどこなのかは、わたしも知らない。だからこそ確認する必要があった。あまり繁華なエリアでも困るが、博士が好んでそういう場所に仕掛けるのは百も承知だから贅沢は言えない。博士とのけんもほろろのやりとりからわたしは目抜き通りのはずれにある1つのマンホールを選び、賢いハンス号をそこへ向かわせた。

「そこにM61バルカンが格納してある。使い方はわかるな?」
「ガトリング式でしたっけ?」
「リズミカルに連射できるすてきなやつだ」
「使えるんですか?」
「誰にものを言っとる」
「古くて錆びたりしてませんかって意味です」
「わたしが情に厚いことはお前もよく知っとるだろうが」
「火器に対してだけでしょ」
「手入れは抜かりない。砲弾もたっぷりだ」
「まあ、博士にとっちゃ盆栽みたいなものですからね」
「そういうことだ」そうそう、と博士はここで思い出したように付け加えた。「サービスでいいことを教えておいてやる。相手はスピーディ・ゴンザレスだと言ったな?」
「そうです。ご存知ですか」
「あいつにも同じマンホールを教えておいた」
わたしは呆気にとられて思わず叫んだ。「冗談でしょう?」
「お得意様なんだ。助手のお前が知らないほうがおかしい」
「ちょっと待ってくださいよ!」
「まァ仲良く分け合うんだな」
「敵同士で?」
「そうだよ」
「ひとつの武器を?」
「そうだよ」
「どうやって?」
「そんなことわたしが知るか」
「その歪んだ平等主義はどうにかならないんですか?」
「サービスしてやったのにご挨拶だな、ピス田」
「火に油を注ぐことをサービスとは言いません」
「薪が減ったらくべるのはサービスだとおもうがね」と博士は言い放った。「だいたい、知らなかったら余計混乱してたはずだぞ」
「それはそうですけど……」
「何をそうカリカリしてるのかさっぱりわからん」
「話が根底からひっくり返ればカリカリもしますよ」
「ついでだからもうひとつ条件がある」
助けるどころか危険が増えたのに何を言うんです!
「助かるかどうかはお前次第だ。要求は満たしたろうが」
「満たしたぶんだけ差し引かれるような話になってますけど」
「ここらでオススメの武器スポットはないかと先に向こうが問い合わせてきたんだ。それに答えて何がわるい」
「まるでレストランガイドだ」
「だから武器庫と兵器の設置場所をいくつか教えておいた」
「差し引くどころかマイナスになってるじゃないですか!」
「向こうは金を払ってるんだぞ!」
「わたしは博士の助手ですよ!」
「つべこべ言うな。元はといえばお前がわるい」
「わかりましたよ」釈然としないが、筋は通っている。抵抗しても勝ち目はない。わたしは観念した。「何です、条件というのは?」
「スワロフスキを探せ。ポワレのやつがパニクって手に負えん」

それだけ言うと、博士はプツリと通話を切った。





<ピス田助手の手記 25: 影のようについて回る1本のカギの話>につづく!